2020.02.06
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言葉のちからを育てる国語教育 ー作者の設定の意図に迫るためにー(7)

前回の記事では、(5)に引き続き物語をとらえるための枠組みを活用した授業についてご紹介しました。一度授業を通して学習したことを活用し、さらにレベルを上げていくポイントとして、

・前の単元で身に付けたことをふまえて次の単元を考える。

・すでに身に付けたスキルを活用するときは、まず「自分たちで」やらせる。

・前回の文章と今回の文章の違いを見つけさせることで、授業で身に付けたことを日常に活かすための視点を与える。

の3つを挙げました。

今回は、これらのポイントをふまえて中学1年生最後の文学的文章教材「少年の日の思い出」でどのような授業を行ったかについてご紹介します。

小平市立小平第五中学校 主幹教諭 熊井 直子

前回までに何を教えたかをまず振り返る。

前回の記事でもお話ししましたが、授業づくりのはじめの一歩は、前回の単元で何をどこまで教えたかをまず確認するところです。前回までの2回の文学的文章の授業で指導してあるのは、

・物語「事件・課題」「事件・課題の結果」「主人公の変容」という切り口で捉えられること

・外側から与えられる「事件・課題」をつかむこと

・「事件・課題」が解決する作品もあれば解決しない作品もあること

・たとえ「事件・課題」が解決していないとしても、主人公の成長が見られる場合があること

の4点です。

これらを踏まえて「少年の日の思い出」をどのように分解し、組み立てていけば生徒にとって新しい学びが得られる授業になるかを考えます。

この話の「事件・課題」は、外側から与えられたものだけなのか

「少年の日の思い出」の単元において最もよく挙がる主発問は「なぜ『僕』は最後の場面で自分のチョウを粉々につぶしてしまったのか」だと思います。この問いを考えるためには、

・これまで「僕」にとってチョウはどのようなものだったのか

・エーミールのクジャクヤママユをつぶしてしまったということに対して「僕」はどのような思いを抱いているのか

・最後のエーミールとのやりとりで「僕」はどのような事を考えたのか

といったように中心人物である「僕」の人物像や心情を読み深める必要があります。この「僕」の人物像を読み深めるという活動を行う際に多くの先生が突き当たるのが、「僕」による一人称視点の本文をもとにしつつも、客観的に「僕」のことを考える必要がある、という点です。私がこれまでお話をした国語の先生方からは、「生徒たちは一読した段階では、『僕』がかわいそう、エーミールは嫌な奴だという感想を持つことが多いが、『僕』の視点に引きずられずに客観的な視点をもって文章を読ませたい」という思いをよく聞きます。

私自身が授業をする際、「なぜ『僕』は最後の場面で自分のチョウを粉々につぶしてしまったのか」という問いを主発問にすることはありませんが、この一人称視点で書かれた作品の主人公を客観的に見る、という活動は今後2年生、3年生と段階を追っていく上で大切なものだと思います。なぜならこの活動は、作者がどのように人物設定をしているかという視点を与えるものだからです。中心人物による一人称視点から離れて作品を読むというのは、人物に感情移入するだけではない作品の読み方を身に付ける良いチャンスです。

そこで、これまで「物語では、主人公に事件や課題が与えられている」という切り口で指導をしている私は、この「少年の日の思い出」において「事件や課題」は主人公の外側から与えられるだけでなく、主人公の人物設定そのものに含まれている場合がある、という点に気づかせます。

物語における課題は、人物の外側から与えられるものだけではありません。例えば「『ドラえもん』に出てくるのび太くんは勉強が全然できない」というように、能力や性格、特技などにおいてマイナスの設定がされている場合があります。そしてそのマイナスの設定が物語の展開に大きく影響することがあります。この「少年の日の思い出」はそのような、主人公に設定されたマイナスの性質(内面的な課題)が物語の展開において重要な働きをしている作品であると考えています。

「共感した人物は誰?」からスタート

とはいえ、最初から「主人公の『僕』には問題があります。それはなんでしょう?」と問いかけてしまうと面白くありません。そこで、私は初発の感想を書くにあたって「『僕』『エーミール』『僕の母』のうち、あなたが共感した人物は誰ですか?また共感しなかった人物は誰ですか?それはなぜですか?」という課題を与えます。

すると、生徒の意見は様々に分かれます。そこがねらいです。この問いの本質は、誰に共感するかしないかではなく、「中心人物である『僕』に読者が共感できない課題がある」ということに気づかせる点にあります。つまり、「僕」に共感できない、という生徒が一人でもいれば良いのです。そしてこれまでの経験上、この問いをした時に全員が「僕」に共感するということはまずありません。「僕」に共感できなかった、それはなぜかというところを起点にして、

「主人公とは完璧なイメージ、いい人のイメージがあるかもしれないけれど、そうではないこともあるんだね。『僕』がもっている課題とはどのような点だろう」

と問いかけると、

「チョウが好きすぎる」

「チョウに夢中になって時間を忘れる」

「クジャクヤママユを見たい思いが止められず勝手に人の部屋に入る」

などの具体的な行動から

「好きなものに夢中になりすぎて周りのことが見えなくなる」

という課題が挙げられます。

では、「僕」はこの課題を解決することはできたのでしょうか。エーミールに謝りに行った場面や、最後のチョウをつぶした場面、そして冒頭の「もう結構」といった場面にまでさかのぼって考えさせると、「解決した」という生徒と「解決していない」という生徒とに分かれます。それぞれの主張の根拠を深めるためには文章を読み込まざるを得ないので、結果として作品中の描写を読み深めるということにつながります。

ここで大切なことは、

・「事件や課題」は外的なものだけでなく内面的なものとして設定されている場合もある

・主人公がその課題を解決できたのかどうか解釈が分かれる場合もある

・主人公は必ずしも成長したとは言えない作品もある

という点に気づかせることにあります。ここを見失うと「解決したのか、していないのか」という討論が盛り上がって終わるだけになってしまうので、気をつける必要があります。

物語をとらえるための枠組みをもつことで客観的に物語を読むことができる

このように中学校1年生の段階で「物語をとらえるための枠組み」を中心に据えて授業を行うことで、「主人公に何か事件が起こり、みんなで力を合わせて解決!」というものから「主人公自身が問題を抱えていて、そのせいで事件を起こしてしまい、結局解決も成長もない」というものまで様々なタイプの物語を整理することができるようになります。このような整理の仕方ができることは、読解力=文章を読んでその内容を理解する力が上がったことの評価規準になり得ると思います。「わかる」「理解する」というのは、「自分の言葉で説明できる」つまり「必要な部分を抜き出して整理できる」ことだと考えるからです。

また、物語をとらえるための枠組みを使って物語を読む経験を積むことによって作者の「設定の意図」を考えることにもつながります。「なぜ主人公ははっきり成長したといえないのか?」という問いは、「なぜ作者はそのような設定にしたのか?」という問いにつながります。ただし、このレベルの授業は中学1年生ではなく、2年生、3年生と積み重ねる中でできるようになっていきます。こちらについてはまた次回以降の記事の中で触れていければと思います。

熊井 直子(くまい なおこ)

小平市立小平第五中学校 主幹教諭
英語もできる国語の先生を目指しています。2016年度に1年間フィンランドの高校で国語の授業を研究していました。英語教育に力の入る今だからこそ母国語教育のあり方を今一度よく考える必要があるのではないかと考えています。

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