2025.02.15
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言葉が意味を失うとき

言葉を学ぶことに、愉しみを見出すことになった話。

東京学芸大学附属大泉小学校 教諭 今村 行

どうも、今村です。
専門教科はなんですかと訊かれたとき、国語と答えます。小学校教員ですから、基本的には担任が国語以外の教科や活動の授業も受け持つことになりますが、大学生の頃から時間をかけて国語と向き合ってきたという事実はあるので、他のものより専門性はおそらく高いのだろうと思います。

ただ、僕は国語が苦手です。そもそも言葉が苦手です。改めて、最近そう思います。
今日はそのことについて考えてみようと思います。

「あなたの言葉は伝わってない」

度々、自分の使う言葉を注意されたり、褒められたりしてきました。
例えば、これは過去の記事でも書いた覚えがありますが、大学3年生で教育実習に行った時、指導教官に「あなたの言葉は目の前の1年生に全く伝わっていない」と注意されました。その瞬間、僕はその言葉の意味がよくわかりませんでした。同じ日本語を使っていて、相手もそれなりに反応しながら自分の話を聞いてくれているし、伝わっていないというのは一体どういうことなんだろう、と思った。

でも、実習の終わりに向かって、その意味もだんだんとわかるようになっていった。つまり、自分の言葉が目の前の1年生に伝わっていない、ということが自分でもなんとなくわかるようになっていきます。そしてもちろん、伝わっていないということがわかってきても、すぐ伝わる言葉を使えるようになるわけじゃない。常に「伝わっていない」とか「ズレが生じている」というストレスと隣合わせになりながら、言葉を使っていく、探していくことになります。
実習終わりに、指導教官に「はじめに比べて、ずいぶん1年生に言葉を伝えられるようになってきましたね」と言ってもらいました。それは、すごく励みになる一言でした。そして、それはおそらく、「伝わるような言葉が使えるようになった」ということではなく「自分の言葉が伝わっていないということがわかるようになってきて、言葉を使う際に迷うようになってきた」ということに対する称賛であったのではないかと、今は思います。

褒められる中で、薄まってしまったもの

教職13年目、それなりの月日を教師として過ごしてきました。先ほどの例のように注意してもらうこともありますが、だんだんと褒められるほうも多くなっていきます。
先生の言葉には力があるね、と子供に言ってもらえたこと。
難しいはずの内容がすっとイメージできました、と大人に言ってもらえたこと。

これで本当に伝わるだろうかという迷いから、言葉を探し使っていくということに努めてきました。それを積み上げてきたという自負もありますから、そうやって褒めていただくということを嬉しくも思いますし、ホッとする部分もあります。これを書いてみませんか、こういう話をしてもらえませんか、というお誘いや依頼も、少しずつもらえるようになってきた。

でも、調子に乗っちゃったんじゃないかな、と思うんです。
俺は、言葉に真摯に向き合っていると信じ切ってしまった。自分がやれば大丈夫だ、と思ってしまった。
そこで、「自分の言葉」ということに、意識が膨らみ過ぎたように思います。自分は言葉をうまく使えているだろうか、この言葉でいいだろうか、と迷い、探すときに、目の前の相手の存在を無視していなかったか。

そうすると、先ほど述べたような「伝わっていない」とか「ズレが生じている」というストレスと隣合わせにいるという感覚が薄れてきます。すごく、楽になっていく。
相手を無視した、自分なりの言葉の吟味。
そういう言葉でもフィットする相手はいます。というか、今の僕のような、自分の中に閉じこもった言葉の吟味を「素敵なもの」としてすすんで受け入れる人たちも、世の中には多いように思います。

楽だし、なんか多くの人に届いてるような気もする。でも、そういう言葉は本当に、僕と相手双方の中で、意味を持つ言葉となっているのだろうか?そうではないやりとりをしたいと望んでいる人が、あなたの目の前に立っているかもしれない。そういうことを、伝えていただく機会がありました。

言葉を学ぶことに、愉しみを

言葉とは、人と人の間にあるものです。その双方にとって意味のあるものでなければ、その言葉は生きたものとは言えないかもしれません。
1年生と僕の間なら、1年生と僕の間での意味を持つ言葉を探さなければ。

切磋琢磨する仲間と僕の間なら、その関係の中で意味を持つ言葉を探さなければ。
尊敬する先輩、恩人、それぞれの関係の中で意味を持つ言葉を探さなければ。
誰に対しても、俺のこの言葉なら大丈夫だと感じるのは、おこがましい姿勢です。言葉というものへの畏敬の念が足りないと思います。言葉に頼り過ぎて意味を失っていくことを、言葉は望んでいないはずです。

相手のことを理解し切ることなんてできない。
だから、相手との間で生まれる言葉に、あらかじめわかるような正解なんてない。その場で、その人と向き合って、生まれる距離感や間合いのようなものの中から言葉をなんとか生み出していく。その中で少しでも、相手のことをわかろうとする。

そういうことが、今の僕は苦手です。
だから、言葉を、国語を、愉しんで学び続けようと思っています。

今村 行(いまむら すすむ)

東京学芸大学附属大泉小学校 教諭

東京都板橋区立紅梅小学校で5年勤めた後、東京学芸大学附属大泉小学校にやってきて今に至ります。教室で目の前の人たちと、基本を大切に、愉しさをつくることを忘れずに、過ごしていたいと思っています。

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