2025.05.18
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「私はあの頃、どんなでしたか?」

同窓会はちょっと苦手。

東京学芸大学附属大泉小学校 教諭 今村 行

どうも、今村です。

この仕事に就いて、初めて6年生を担任させてもらい、卒業式を共にした人たちが、同窓会を開いたそうです。僕は諸事情があり行けなかったのですが、一緒に担任をしていた方が参加されて「みんな元気だったよ」と教えてくれました。既に社会で誰かを助けている人、これから社会に出て働く人など様々。どこか面影を残しつつも、きっといい時間を過ごしてきたんだろうな、と思わせる大人びた表情の写真を見ると、みんな素敵だな、と素直に思いました。

卒業生の人たちとか、前に担任させてもらった人たちから「私はあの頃、どんなでしたか?」と聞かれることがあります。これはなんだか、とても面白い質問だな、と思います。
だって、自分のことですから。自分を内側からずっと見ている自分自身を差し置いて、1年や2年程度の短い時間一緒にいた僕からどう見えていたかなんていうことは、そんなに重要なこととは正直なところ思えません。

じゃあ、なんでそんなことを聞くんだろう?
「自分のことが自分ではよくわからない」から?
だから、相手は自分をよくわかっているはずだから、教えてほしいということ…?

「自分のことが自分ではよくわからない」

「自分のことが自分ではよくわからない」なんて言葉、いつの間にか僕も口にするようになっていたけれど、それってどこかで見たか聞いたかしたのを大した確信もないのにそれっぽく使っちゃってるだけなんじゃないのか?

(自分の恥ずかしい実体験をもとに)考えてみると、少なくとも「自分のことが自分ではよくわからない」という「事件」がまさに起こっているその瞬間には、「自分で自分がわからない」ということを自覚なんてできないことが多いんじゃないだろうか。つまり「自分のことが自分ではよくわかっていなかった」ということが、その瞬間の(時にはずいぶん)後に振り返ってはじめてわかるのではないか。

「私はあの頃、どんなでしたか?」と聞いてくるという時には、「あれ、もしかしてあの頃の自分ってアホだった?」とか、「あの時って自分で自分を全然コントロールできてなかったよな」というようなことを、もう感じられるようになっている。なぜあんなアホなことをしていたのか、なぜ自分のことなのに自分でほとんどコントロールができなかったのかが、今の自分にはさっぱりわからない。「私はあの頃、どんなでしたか?」と聞く時に少しの恥じらいが表情から垣間見えるのは、そうした背景があるからなのではないかと思います。

時に大人がコミュニケーションを壊す

Netflixの『アドレセンス』というドラマを見ました。アドレセンス、とは思春期という意味だそうです。
警察がとある家庭に押し入り、息子ジェイミーをある事件の容疑者として逮捕する。その事件をめぐって、ジェイミーの学校の異様な雰囲気、子どもと大人の隔絶、家族の葛藤などが描き出されます。学校という場、子どもという存在と関わる人間として、これは他人事じゃないと感じさせる迫力がありました。

ドラマの具体にはここでは触れませんが、何かがあったとき、大人は子どもに「なぜこんなことをしたのか?」と問いを向けます。そこには当然、行動のもとにある根拠、理由があると考えるからです。ただ、これは「自分のしていることを、自分は完全に把握しコントロールしている」という神話に基づいた問いです。大人は時に、それを疑わずに子どもに問いを向けてしまうことあります。

でも、子どもの側は、そこに明確な根拠が必ずしもあるわけじゃない。その時、その瞬間には「なぜ自分がそんなことをしたのか、わからない」ということが、真実かもしれません。でも大人はそれに納得しない。「なぜ?」を繰り返し突きつけられると子どもは理由を「創作」します。でもそれは創作された嘘ですから、「なぜ嘘をつくの?」と追及される。
ここに、コミュニケーションは成立しません。当然コミュニケーションできると信じて疑わない大人の存在によって、コミュニケーションが破壊される。これは、教師という仕事をしている身としては痛烈なインパクトでした。

「周りの人間はもっと自分のことをわからない」けれど

『アドレセンス』を見て僕が考えたことは、「自分のことは自分ではよくわからない」し、さらに言えば「周りの人間はもっと自分のことをわからない」ということです。
だから、先ほどの話に戻れば「私はあの頃、どんなでしたか?」と聞かれても「ちょっとよくわかんない」と言うのが正直なところなんです。

でも、「私はあの頃、どんなでしたか?」という言葉には、隔絶を越えようとする意志があるというのもまた事実なのではないか。内側から見てきた自分のわからなさを他者に開き、様々な角度から光を当てようとする。そんなコミュニケーションの第一歩を踏み出し始めたい、という体温がそこには感じられます。そんな時に「ちょっとよくわかんない」とだけ返す大人ではいたくないな、ともまた思うのです。
わからないからこそ、相手の姿に目を注ぎ、耳を傾け、同じ空気を肌で感じ取れるように。そこで生まれた相手の印象が「正しい」わけではもちろんないけれど、一つの光の当て方として、相手という存在をより立体的に映し出すための一助には、なるかもしれないから。

今村 行(いまむら すすむ)

東京学芸大学附属大泉小学校 教諭

東京都板橋区立紅梅小学校で5年勤めた後、東京学芸大学附属大泉小学校にやってきて今に至ります。教室で目の前の人たちと、基本を大切に、愉しさをつくることを忘れずに、過ごしていたいと思っています。

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