どうも、今村です。
学びの場.comさんからありがたいことに授業の取材依頼をいただき、とても素敵な記事に仕上げていただきました。
「児童が自ら問いをつくり、追究するための授業づくり」
(前編)東京学芸大学附属大泉小学校「国語」授業リポート
(後編)自分の意見がクラスメイトの「ギフト」となる環境
いつも徒然なるままに書き付けている駄文を掲載していただいているに留まらず、授業まで取り上げていただけて、本当にうれしかったです。
取材の依頼をいただいたときに、一点だけお願いしたことがありました。
「子どもの顔写真を使いたい」
僕は、授業で見せてくれるクラスのみんなの表情がとても好きです。今村の写真を使うよりも、僕の大好きなみんなの写真をたくさん使っていただけたら、そうお願いしたのですが、学校の管理職や保護者の方々のご協力もあり、素敵な表情をたくさん載せることができました。記事に携わってくださった皆様に、心から感謝いたします。
前編はいいのですが、後編は今村の写真が中心になっておりまして…、クラスで子どもたちに、無事に記事になった旨を伝えた際も「後編の今村が偉そう」と大変イジられました。ぜひ前編だけお読みください…笑
なんのために授業をするのか?
さて、記事にとりあげていただいたのは「ごんぎつね」の授業です。
扱う教材を何にしようか、大変迷ったのですが、最終的には「ごんぎつね」を選びました。
「ごんぎつね」と言うと、小学校国語科教科書を作成している全ての出版社が掲載している唯一の作品として有名です。そうです、日本の小学生全員が「ごんぎつね」を学校で読むんです。これは改めてすごい話ですね。
それだけの教材ですから、過去の実践事例というものも膨大にあります。論文もたくさんたくさんあります。そういう先人の積み重ねから学ぶことは多いです。でも、そういうもの全ての顔色を伺おうとすると、身動きが取れなくなってしまうだろうな、とも思います。
そんな中で自分で決めたのは、「ごんぎつね」という作品やそこに付随するもの、ことに敬意を表しつつ、「ごんぎつね」のために授業するわけではない、ということでした。
「ごんぎつね」という作品の正解を追い求めるために授業をしたいわけじゃない。「ごんぎつね」と目の前の子どもたちの間に生まれるものを追究するためにこそ、授業をする。
それをやった末にしか
改めて記事を読み返してみると、当たり前ですが、僕の授業がごんぎつねの授業の正解だと主張するつもりは全くありません。むしろ、そこには多分の「提案」が含まれている。「提案」というのは正解とか、王道というものからは少し外れています。だから、非常に不安定だと言えるし、論理的に「間違ってない」と胸を張ることもなかなか難しいのかもしれない。
ただ、自信がないか、と問われたとしたら、「自信は、ある」と答えるだろうと思います。なぜか?
この授業をつくり上げる過程で考えたことや、今回のインタビューで答えていることは、全て自分の言葉によって成り立っているからです。
どこかに書いてあったことを自分風味にして言ってるんじゃなく、自分が読んだり体験したりして得たことを消化し、納得し、自分の言葉に翻訳できることだけでもって成り立っている。僕は、自分のやることを、ちゃんと明らかにして説明できるようにしたい、という欲が強いと自覚しています。
自分の中で辻褄があっているわけですから、まぁ人から見れば間違っていたとしても、自分のことは信じられると、特別な気負いもなく自然と言うことができます。
もし「間違ってる」と言われることを恐れてしまったとしたら、「間違ってない」ことに収まらざるを得なくなります。「間違ってない」ということは、それなりに多数派の支持を得るということでもあります。あるいは、極端に言えば「誰にでもできること」を「間違ってないこと」と呼ぶのかもしれない。
「間違ってないこと」を適切にできるようになったところで、それを喜びに感じたり、自信に感じたりできる自分なのか?
今一度、そう自分に問い掛けたとして、首を縦には振らない自分がいます。
間違ってるとか間違ってないとか、そういうことの先にある、自分の決めたことをやる。
それをやった末にしか、自分の見たい子どもたちの表情はないだろうから。

今村 行(いまむら すすむ)
東京学芸大学附属大泉小学校 教諭
東京都板橋区立紅梅小学校で5年勤めた後、
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