道徳の授業をしていて感じることは、算数や国語などの教科と異なり、誰もが主役になれるということです。あるときクラスの子どもたちに、「今日は校長先生が道徳の授業を見にきてくれるよ」と話すと、「道徳かぁ、嫌だな」という声が上がりました。私はそのクラスを担任して間もなかったものの、その反応は残念だと思いました。
しかし、授業が始まると、嫌だと言っていた子どもが活発に発言したり、みんなの前で演技をしたりしてくれました。まさに授業の主役になったのです。そんな様子を見ると、道徳の授業っていいなと思います。国語や算数のような教科では目立たない子どもたちが、このときとばかりに力を発揮するのです。そして、クラスメイトから認められたり、本人も自信をもてるようになります。
そうはいっても、必ずしも授業が上手くいくとは限りません。私は担任しているクラス以外にも、多くのクラスで授業をしてきました。すると、同じ学年で同じような内容を扱っても、発言が少なかったり、話し合いをしても盛り上がらなかったりという授業になってしまい、悩むことがあります。そして、自分の力量不足だなと、猛省することになります。
さらに考えてみると、子どもたちが自分の考えを表現することに慣れていないクラスだと、やりにくいのかもしれないなという思いに至ります。逆に、初めて出会った子どもたちとであっても楽しい授業になった場合には、担任の先生が日頃から素晴らしい学級作りをされているのだなと思います。
つまり、誰もが主役になる授業を展開するには、授業の準備を徹底的に行う必要があるということです。道徳の授業準備に多くの時間を割くことが難しいことは、よくわかります。だから全ての授業に時間をかけることはないと思います。月に一度、学期に一度でもいいので、納得のいくような授業ができるような準備をしてみてください。そういう教師の思いは、必ず子どもたちにも通じます。そして、いい授業を重ねていくことができれば、教師自身も授業のやり方に慣れてきますし、子どもたちの満足度も上がっていくと思います。
それから、日頃から自分をさらけ出して表現することができるようなクラスを作っていくことが大事だということです。自分の考えを表現する力というのは、そう簡単なものではありません。心を開いて考えを述べたときに、友達が受け入れてくれる、間違ってもいいんだという雰囲気を作っていくよう心がけてほしいと思います。
例えば算数の授業などで、「間違っているかもしれませんが」といった前置きをする子どもに出会うことがあります。「私の授業では間違っても大丈夫なので、前置きをするのはやめようね」と伝えます。すると、次第に自由にものが言えるようになっていきます。子どもの考えを認め、間違っていたとしても勇気をもって発言したことを褒めていくことを繰り返せば、クラス全体が発言したり表現したりすることに勇気をもてるようになります。間違うことにも寛容になれるのです。
ところで、「人との関わりというのは有機的なものである」と、学生時代に読んだ本にありました。その時には、それが大切だとわかっても、意味を正確に認識したわけではありませんでした。今更ながらに調べてみると、「有機的」というのは「有機体のように、多くの部分が緊密な連関をもちながら全体を形作っているさま」とありますし、「有機的組織」は「組織の雰囲気が緩やかであり、しがらみも少なく自由な雰囲気の組織をさす。 また明文化された規則は少なく、あっても拘束力は弱い。 そのため構成員は自らが何をするべきか考えなければならない」とあります。ありのままの自分を表現しつつ、お互いを尊重し合うことのできる関係ということだろうと思います。「言うは易し・・・」ですが、そんな関係を作っていけたらいいと思います。
かつて出会った教師の中には、クラス作りをゲームのように考え、子どもたちを自分の手足のように考えているのではないかと感じることがあり、びっくりさせられることがありました。教師が王様のように君臨していては、子どもたちがまっすぐに育つことは難しいと思います。特に道徳の授業には、教師の顔色を伺って、教師の好むような発言をしてしまうことに繋がってしまうからです。教師が主役ではなく、子どもたち一人一人や主役になれるクラスを作っていき、その上にいい授業を展開していってほしいと思います。
荒畑 美貴子(あらはた みきこ)
特定非営利活動法人TISEC 理事
NPO法人を立ち上げ、若手教師の育成と、発達障害などを抱えている子どもたちの支援を行っています。http://www.tisec-yunagi.com
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