子どもの心の動きが「見える」ってどういうこと? ~客観的な情報を越えたものを,教師は感じとることができる~(2)
前を見ていても横の子どもの「体の動き」が見え,後ろの子どもの「心の動き」が見える。50数年を保育実践の場で過ごされた堀合文子先生には,それが可能だったと言われます(前号にて)。
神様みたいですね。
堀合先生には,頭の後ろや横に目が付いていたのでしょうか?
それはない。
でも「人の気配を察する」とか「空気を読む」とかの言葉は日常のなかでよく聞きます。目に見えないものを感じとる力が,人間には備わっていそうです。
元静岡大学教育学部特任教授兼附属浜松小学校長 大村 高弘
「心の健康観察」とは?
子どもの小さなSOSを察知するため,一人一台端末を活用した「心の健康観察」を行っている学校も多いと思います。
今の気持ちを「晴れ」「雨」などで記入する「心の天気」は,職員全体で共有が可能。対面では言えない子であっても,このシステムだったら表現できます。今まで見えないでいた心の変化が,このツールによって表に出てくるでしょう。
ふだん教室で子どもが見せる表情や言動は,あいまいで流動的です。
その真意は教師にもつかみにくい。でも「心の健康観察」は記号として固定化されます。エビデンスのひとつになりえます。
一方で先生方は,これが間接的なものであることの限界も知っておられるはず。アンケートに基づく客観的理解(とされる)と同様に。
示された応答はその時(過去)の結果であって常に変化している,心に問題をもっている子ほど「自分の心の内を知られたくない」思いが強い,などが子どもの現実でしょう。
「ああ,これじゃだめだぁ。」
以前勤めた学校に,教職2年目となるM先生がいました。
担任する6年生の子どもたちから慕われ,温かな空気を感じる教室をつくっていました。
ある日の休み時間,体育館に行くと,男子数人とM先生がマットで「跳び前転」を練習しているのに出会いました。
「いたあ!」
頭頂部をマットにぶつけてしまう,ジャンプ後に体を支えきれず横に曲がってしまう……
ー うまくいかない,どうしたらいいんだろう? -
子どもたちの困り感が伝わってきます。
そんな中で,M先生もチャレンジ。着手の後も体に力が入った状態で回転していて,ぎこちなさを感じます。
「ああ,これじゃだめだぁ」
本人のつぶやきが聞こえてきました。
人間的なふれあいのなかにいて,子どもが直面している難しさを体で感じとっているM先生。
ー 活動の外に立つわたしと違うものが,M先生に見えているのでは -
と思えました。
『はるをみつけよう』
1年生を受け持っていた2月の終わり,『はるをみつけよう』(生活科)の授業をしました。
「今日はちょっと寒いけれど校庭に出てみよう。春が来ているかもしれないよ」
子どもたちは大喜び。春を見つけようと活発に動き始めました。
「先生,木の枝に小さな花のつぼみがある」
「茶色い草の中に,緑のかわいい草が生えていた」
校庭を歩くわたしに,たくさんの報告がきます。
思い思いの動きが見られるなか,花壇の横の地面で寝転び,大の字になっているAさんの姿を見つけました。
ー あれっ,この子は何しているのだろう? ー
目を閉じ,じっと静かに動かないままでいます。
わたしもそっとその横に並んで寝転んでみました。
しばらくすると地面の温かさが背中を通し伝わってきます。日差しが顔に照りつけるので目を閉じると,瞼にオレンジ色の光を感じます。少しずつ自分の体が温かくなってきました。
ー ああ,春がきている ー
Aさんの気持ちが感じ取れて,自分も幸せな思いになれました。
子どもと直にかかわることで見えてくるもの
わたしには,頭の横に目が付いていたわけではないけれど,Aさんの気持ちを感じ取ることはできました。
冒頭あげた堀合先生の「見える」の意味は,子どもを,自身の体全体で感じ取ることだったのでしょう。50数年にわたる保育者としての実践。その自律的な努力のなかで磨かれた感性が,「見える」ことを可能にしたのだと思います。
子どもを客観的な観察の対象とし外からの目でとらえるのでなく,子どもと相互に影響を与え合う直接的な関係のなかに,「見える」という経験はもたらされるのでは。
大村 高弘(おおむら たかひろ)
元静岡大学教育学部特任教授兼附属浜松小学校長
新しい学習指導要領の改定に向け,準備が進んでいくことと思いま
アフターコロナの時代,社会が大きく変化する中で,学校と授業は
今後の学校教育に期待することを,不易・流行の両面から考え、お
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