2005.08.30
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ネイホウ! 香港より教育事情探訪記(vol.6)

今回は19世紀からの香港の教育史がテーマです。

みなさんこんにちは!
今月も香港よりお届けしています。先月までは、香港における最近の教育事情をレポートしてきましたが、今月は少し時代をさかのぼり、香港の教育の歴史についてレポートいたいと思います。

◆香港初期の教育

香港の昔の入学式の様子 (博物館にて)

香港の昔の入学式の様子 (博物館にて)

中国文化と西洋文化の出会いが、香港の学校教育のシステムにも大きく影響を与えてきました。英国に占領されると同時に、西洋での教育スタイルが宣教師によって香港にもたらされました。キリスト教が母体となって、熱心な教育活動を進め、1843年には香港の女性に教育の門が開かれます。イギリス政府は中国人のエリートを育成しようと、1862年に始めての公立学校である、セントラルスクールを設立しました。そして、1873年には、政府からの補助金制度によって学校を運営するシステムが紹介されます。政府は1912年に香港大学を設立しますが、これは言うまでもなくエリート教育というコンセプトを見事に反映したものでした。1920年代から30年代に、香港では中国式の私立学校が多く設立され、この時代に一気に児童生徒への教育の機会は広がっていきます。

◆私立学校

行きつけの飲茶店にて

行きつけの飲茶店にて

19世紀後半、イギリス政府は中国語の教育にはあまり関心を示していませんでした。カイフォンスクールとチュンワースクールの2校が中国語での教育のかなめでした。1912年に清王朝が崩壊すると、中国本土から多くの教育者が香港にやってきて、中国式の私立学校の発展を助けました。そして、翌年には全ての私立学校がイギリス政府の管理下に置かれました。そして、日本が中国を侵略し始めると、中国本土から多くの私立学校が香港へと移ってきました。

◆公立学校

1874年、イギリス政府は3つの中国式の学校に補助金を与え始めました。そして1850年代には、教師や校舎といった学校の環境を整えるために、全ての公立学校を管理下において支援したのです。先ほども少し触れましたが、香港初の公立学校であるセントラルスクールは、非宗教的学校で、英語教育に取り組む学校として開校しました。20世紀初頭に入ってようやく、イギリス政府は英語教育だけでなく、現地語での教育の促進にも関心を示すようになりました。ということは、イギリス統治が始まってから半世紀ほど現地語での教育が軽視されていたということになります。いかに香港の教育がイギリス式に染まっていったのかが分かります。

◆ミッション系学校

名物午後ティーセット。 このセットは300円ほど。

名物午後ティーセット。 このセットは300円ほど。

1840年代から50年代前半に、香港で始めてのミッション系学校が3つ設立されました。当時のミッション系学校の設立の大きな狙いは、若者にキリスト教を普及させることと中国人の牧師を育てることでした。1843年に香港で初めて女性にも教育の門戸が開かれますが、その第一号となったのは、南アメリカからやってきた宣教団が設立した女子学校でした。20世紀初頭までにはミッション系学校も政府からの援助も受けられるようになりました。1912年に授業が全て英語でなされる香港大学が落成されてからというもの、英語で授業を行うミッション系の学校数は増えていきました。

◆日本化教育

香港が日本に占領されている間、香港での教育の機会は大幅に縮小してしまいます。1941年から1945年の間に、児童生徒数は118,000人から4,000人へとおよそ60分の1に減少してしまいました。この日本化教育では、日本の占領時の政策にプラスになるようにと、日本文化を植えつけることを目的とした方針が打ち出されました。全てのプライマリースクール、ミドルスクール(日本の小・中学校に該当する)では、一週間に4時間もの日本語教育が強制的に行われ、公立学校においては、日本の文化と礼儀作法が主な教科として教えられたのでした。これらの日本化教育は、香港の人々をより支配しやすくするための下準備とされたようです。香港歴史博物館の説明には、「全ては、日本が大東亜共栄圏を達成するために行った」と明記されており、日本人として心が痛みました。

◆戦後の教育

若者に人気の 日本の太鼓ゲーム

若者に人気の 日本の太鼓ゲーム

戦時中に多くの学校の建物が深刻なダメージを受けました。また、児童生徒数の急激な増加によって、香港における戦後の教育はやや困難なものでした。その状況で、政府は教育を推進するのに大きな役割を担っていきます。プライマリースクール(小学校)は1950年代に急速に拡大し、ジュニアセカンダリー(中学校)は1970年代、シニアセカンダリー(高校)は1970年代後半、ポストセカンダリー(大学予科)は1980年代にそれぞれ拡大していきました。政府の努力によって、普遍教育の理念は達成され、心身にハンディキャップのある児童生徒も含め、全ての学齢の児童生徒に公平な教育の機会が設けられました。そして、香港中文大学の開校によって中国語教育の発展、共通テストへのバイリンガル制度の導入と、中国語での教育の促進がその頃の香港での教育の大きな変化の1つでもあります。
博物館では大衆文化も 体感できる

博物館では大衆文化も 体感できる

今回のレポートを読んでいただければお分かりいただけると思いますが、香港の教育は他国の文化の影響や、戦争、それに伴う侵略、統治など外部からの影響を大きく受けて変化してきました。外部へ対応するために自ら形を変えてきたというよりは、外部からの力によって変えざるを得なかったケースが多いと言っても過言ではありません。そんな歴史を経てきた香港の教育ですが、1997年に中国へ返還されてからは内部からの改革に尽力しています。教育改革の外的要因がなくなった今、香港の教育が今後どのような変化・進化を遂げていくか、今後その真価が問われることになるでしょう。

今回のレポートに先立ち、わたしは香港歴史博物館へ情報を求めに行ってきました。夏休み真っ盛りの入場料無料の日であったため、多くの児童が展示を見て何かを発見し驚きの声を上げたり、ノートとペンを持って夏休みの宿題と思われる調査などをしていました。この歴史博物館は、多くの日本人観光客も訪れる尖沙咀(チムサァチョイ)にあり、大通り沿いの交通の便の良いところにあります。全体を見て回るのに、2時間近くはかかりますが、行ってみる価値は大いにあるものです。日本語でのガイドこそありませんが、中国語から意味を推測したり、英語の説明を拾い読みするだけでも十分楽しめる博物館になっていますので、語学に自信のない旅行者の方にもおすすめです。

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取材・文:須藤綾子

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