2016.08.16
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「主体的に」って・・・?

京都教育大学附属桃山小学校 教諭 若松 俊介

「主体的に」って?

「主体的に」ってよく聞く言葉です。

答申、各学校の目標、指導案、通知表の所見、書籍、講演会、研究会

・・・とあらゆる場面で「主体的に」という言葉を見ます。聞きます。

「主体的・対話的に深い学びの実現」

とアクティブ・ラーニングの視点にもありますね。

どの時代でも大切にされていること。

ただ、はっきりとしているようで、少し曖昧に感じる時もあります。

ある大学の先生に、「『主体的に』って当たり前だから違う言葉にしなさい」

と言われたこともありました。

皆さんならどんな言葉が思い浮かびますか。

・子どもが目をキラキラと輝かせて

・前向きにどんどん取り組む

・自分のエンジンを持って

・子どもが生きる

・教師に言われなくても、自ら

・・・など、様々な表現の仕方があります。

こうやって挙げていくことが、まず「主体的に」のイメージをつくりあげていくことになるでしょう。

もしかしたら、先生によって捉え方が違うかもしれません。

話し合ってみると面白いですね。

子どもの「主体的に」を育てる

では、その「主体的に」が授業ではどうか。学級ではどうなのか。

子どもたちは目をキラキラと輝かせているのか。

自分から動き始めているのか。

本当にそうなのか。

そのように見えるだけでないのか。

と問い続けながら、目の前の子どもの姿をしっかりと見つめて

自分のあり方を問い続けていくことが大切です。

教師ってついつい技に頼ってしまう時がある。

教師ってついつい自分を良く見せようとしてしまう時がある。

「主体的に見える」っていうのは、本当に怖いことですね。

「主体的に見せる」っていうのは、もっと怖いかもしれません。

教師のための授業や毎日ではなく、

子どもたちのための授業や毎日だということを忘れない。

「そんなの当たり前」だと思いますが、

知らない間に「教師」の方が強くなってしまうことがあります。

そこから「主体的に」は消えていきます。

子どもたちの「自分ごと」を増やしていく

本当の意味で「主体的に」動く子を育てるためには、

あらゆることを「自分ごと」に意識づけることから始めていかなければと感じています。

授業はもちろん、学級での日常生活から。

授業だけで「主体的に」を育成することなんて不可能です。

あらゆる場面で「主体的に」が大切にされていることによって、

相互作用で大きな力を生み出していきます。

「教師が出てはいけない」というわけではないけども、

教師が、子どもたちの「自分ごと」を奪ってしまってはいないでしょうか。

例えば、「宿題を忘れた子」がいる時に、安易に叱っていませんか。

宿題忘れはやる気の問題ではなく、

その子にとっての「自分ごと」になっていないだけの話。

本当に自分にとって必要なものになっていれば、

どうにかしてできるはず。

安易に叱ると「叱られないために宿題をする」と学ぶだけです。

「こうすべき」「こうあるべき」「こう必要」

と教師から教え込むのではなく、

「自分ごと」になるように、一緒になって考えていく。

時間はかかるかもしれないけど、

ゆっくりついた力はずっと残っていくことができます。

子どもの「今」をしっかりと見つめると、

どんな支援をしていけばいいのかなということが見つかってきます。

「あ、これは出過ぎなことだな」ということも度々あります。

どうすべきかは子どもが教えてくれます。

1学期の自分をしっかりとふり返りながら、

2学期に子どもたちとまた一緒に進んでいきたいと思います。

「『主体的に』って何だろう。」

「『主体的に』をどう育てたらいいのだろう。」

「『主体的に』のためにどんな場をつくればいいのだろう。」

と絶えず悩みながら進んでいきたいです。

若松 俊介(わかまつ しゅんすけ)

京都教育大学附属桃山小学校 教諭
「子どもが生きる」授業を目指して、日々子どもたちと共に学んでいます。子どもたちに教えてもらった大切なことを、読者の皆様と共有していければ幸いです。国語教師竹の会所属。

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