「Lifelong Learner」を育てるー勉強することは楽しいー(No.1)
こちらでの連載も4期目に入りました。これまでは、フィンランド留学を通して学んだことや、3年間を見通した教育課程の作成、国語の授業を通していかに対話のスキルを育てるかなどについての私見を述べさせていただきました。今期は、もう一度原点に立ち返り、生涯を通して学び続けることの大切さや、勉強することの楽しさをどのように授業で実現しようとしているか等についてご紹介していければと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
小平市立小平第五中学校 主幹教諭 熊井 直子
「Lifelong Learner」という言葉との出会い
日本語では「生涯学習」と言われるこの「Lifelong Learner」という言葉と出会ったのは、2018年にフィンランドのヘルシンキ大学でのサマースクールに参加した時でした。2016年度に1年間フィンランドの高校で国語の授業を見学する、という体験をしてからというもの、海外の教育専門家の方々と交流をすることの楽しさを知り、短期間でもいいからまた外国に行きたい、と考えたのが、このヘルシンキ大学でのサマースクールに参加したきっかけでした。
私が受講したのは、実地見学等も行いながら、フィンランドの教育制度について学ぶとともに、理想的な教育とはどのようなものかについて受講者同士でグループを作って発表をするというものでした。フィンランドの教育について改めて知ることができたのも良かったですが、それ以上に、アメリカ、香港、インド、エジプト、イスラエル等様々な国から集まった教育の専門家の方々と直接話をすることができたことは非常に勉強になりました。
その時に多くのグループがキーワードとして挙げていたのが、「motivation」「emotion」「lifelong learning」でした。教師から生徒への一方向的な学び、厳しい試験を突破することだけを目的とした学びではなく、「何のために学びたいのか」「なぜ学ぶのか」を自らが考えるとともに「学校の中だけではなく自主的に学ぶことができる」人間を育てたい、という思いは、どの国の先生も同じようにもっているのだという認識を新たにした経験です。
履修を証明してもらうための学びと自主的な学び
このように、おそらく教育に携わる多くの先生たちには「勉強することは楽しいと感じてもらいたい」「自分が興味関心をもったことに対して探求していってほしい」「その人にあった学びの場を提供してあげたい」という思いがあると思います。しかし、その思いが「学校」という枠組の中に入ると実現させることが難しくなるのはなぜでしょうか。
それは、「学校」が「教育課程の履修を証明する」という働きをもっているからだと思います。公立の小・中・高等学校であれば、「学習指導要領」という形で履修すべき教育課程が国によって定められています。また、大学や専門学校であっても、単位修得のための教育課程が各学校で定められています。そうした課程を修了することによって、「この人はこの課程を履修しました」という証明を与える働きが、「学校」にはあります。特に義務教育段階においては、児童・生徒が何を履修して何を履修しないかという選択をすることはほぼできません。これが、「受動的」「詰め込み」と言われる一つの理由であると考えます。
しかし、この「教育課程の履修を証明する」という学校の働きは、これからの社会の中で失われることはないと思います。「ある教育課程の履修修了」は、その人を評価するための規準のひとつとして機能しているからです。「偏差値の高い学校出身である」という評価規準は、ある一定の批判はありますが、おそらくなくなることはないでしょう。また、「中卒」「高卒」という評価規準を完全になくすことは難しいでしょう。なぜなら、こうした評価規準を完全に撤廃して、全ての雇用主が独自の評価規準を作ることができるとは考えにくいからです。また、同時に、教育を受ける側も、自分が勉強したことを社会的権威ある機関に認定してもらえるのはメリットが大きいです。こうしたことから、学校の在り方を考える際に「履修証明機関」としての機能を抜いて考えることはできません。
では、学校のこのような機能を生かしながら「自主的な学び」を実現することはできるのでしょうか。
ここで言う「自主的な学び」を、生徒自身が学ぶ内容や場所を選ぶこと、と捉えるとすると、例えば、ヨーロッパの大学が採用している共通の単位である「ECTS」のように、ひとつの学校の枠組を超えて習得した「履修証明」を統合することでさらに大きな証明を得る、というシステムを採用すれば、学生自身の選択の幅を広げることが可能になります。また、現在の義務教育段階においても、学校には通えないけれどフリースクールに通うことで学校の出席日数にかえることができたりします。まだ時間はかかると思いますが、GIGAスクール構想が実現すれば、ICT機器を活用した個別最適化された学びも進んでいく(はず)です。
その一方で、全てを児童・生徒の「選択」に任せてしまって良いのだろうかという疑問も浮かびます。例えば小学1年生の子どもが、自分が学ぶ内容や学ぶ場所を選ぶことができるのでしょうか。常に子ども自身が「選択」を迫られるような社会に万が一なった場合、金銭的に裕福な家庭や、教育に熱心な家庭は、子どもに対する選択肢をより多く与えることができるのに対し、そうでない家庭は、どのような選択肢があるかさえ分からない、という状態に陥る可能性があります。このような格差が生まれた場合、先に述べたような「学校の中だけではなく自主的に学ぶことができる」人間を育てることにはならないのではないかと考えます。
公立学校が果たすべき役割とは
そこで私が考えたいのは、義務教育段階における公立学校がどのような役割を果たすべきなのか、です。誰に対しても平等に学習の機会を与えることができる公立学校において、「履修証明機関」としての機能を守りつつも、いかに「Lifelong Learner」としての資質を育成するか、という点をこれからの連載を通して考えていきたいと思います。
熊井 直子(くまい なおこ)
小平市立小平第五中学校 主幹教諭
英語もできる国語の先生を目指しています。2016年度に1年間フィンランドの高校で国語の授業を研究していました。英語教育に力の入る今だからこそ母国語教育のあり方を今一度よく考える必要があるのではないかと考えています。
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