「なにもしない」を考える
今回は、「なにもしない」ということについて思いをはせてみたいと思います。
「なにもしない」ということは、いけないことなのでしょうか?
明石市立鳥羽小学校 教諭 友弘 敬之
大学院での生活
現在、私は教職大学院で学ぶ機会をいただき、県の取り組みの一環としての長期研修を受けています。
朝、小学1年生の息子とともに起き(ともに、寝坊し)、普段の通勤時間よりも少しだけ余裕をもって車で北上します。そして、夕食時に帰宅するという生活をしています。
もちろん、大学での授業や個人的な課題、読書に追われる日々ではありますが、勤務校に対してはなにもしていない、なにもできていない毎日に少し歯がゆさを感じる今日この頃です。
この「なにもしていない(わけではないですが)」2年間は、私にとってどのような意味があるのでしょうか?
時間をかければ成長するのか
高度経済成長期から目まぐるしく発展してきた社会においては、時間における仕事量というのは、そのまま利益や発展につながると考えられてきました。
例えば、工場で生産される日常品を思い浮かべてみてください。手作業で1時間に10着の衣類を製造していた時代に比べて、工場で1時間に1000着の衣類を製造できる時代のほうが、はるかに生産量は増えます。2時間、3時間と経過すれば、それだけ生産量も増えていきます。
この考え方は、日常的な場面においても同じで、時間がたてば今よりも良くなっていることが当たり前と考えられているわけです。つまり、1時間学習をするよりも3時間学習をしたほうが良いと考えられるわけです。
しかし、本当にそうでしょうか?
例えばこのような話ではどうでしょうか。
強豪校といわれる、スポーツで有名な高等学校。毎年大きな大会では優勝し、知名度も高いです。その裏には、日々のたゆまぬ努力という名の膨大な練習量があるわけです。
ところが、卒業生の多くが、「もうあんなしんどい思いは二度としたくない」と、卒業後にそのスポーツをきっぱりとやめてしまいます。
一方、もう一つの学校は強豪校といわれることはありません。優勝したことなど一度もないほどです。
しかし、キャプテンの統率のもと、チームで合意を図りながらメニューを考え、日々それぞれの良さを生かし合いながら切磋琢磨しています。
卒業後もそのスポーツを続ける仲間が多く、社会人になった今でも時々集まって汗を流しています。
この2チームの比較からもわかる通り、「イケイケどんどん!」と、上昇することだけが唯一の良さであった時代と、ウェルビーイングやQOLのように、生き方の質を問われる時代の良さとでは、良さの意味も変わってきているのでしょう。
「なにもしない」という選択
小学生を目の前にして語るときによく使う例を挙げてみましょう。
「皆さん、蝶々の幼虫はさなぎになって、蝶々になりますね。さなぎになっている間、何をしているか知っていますか?外から見ているだけではなにもせずに、ぶら下がっているだけに見えますが、中身はとてつもないエネルギーを使っています。それは、幼虫であった体の一部を分解し、蝶になるための体に作り替えているのです」
子どもたちは、「えー、なんか怖い!」と、感想を口にします。
私は、この現象は蝶々に限ったことではないと感じています。蝶々と同じくらい、いえ、もっと複雑な私たち人間にとって、外から見えている様子以上に、内面では多くの変化が起こっているのではないでしょうか。
それは、まるで蝶の幼虫が自分の体をつくり替え、成虫へと成長していくことと同じくらいの大きな変化なのかもしれません。
そう考えると「なにもしない」選択は自分を大きく成長させていくためにも大切になってくるのかもしれません。
かといって、社会人として働く私たちにいつでも「なにもしない」という選択肢があるわけではありませんが…。
答えが出ないことは「なにもしていない」ことなのか?
先行きが不透明で予測が難しい「VUCAの時代」と言われるようになって、数年がたちます。社会はめまぐるしく変化し続けるといわれてきました。
実は、私も含めて学校の先生は変化の激しさに耐性があるとは言えないと感じています。その典型的な場面が探究学習です。
ある程度決まった1年間の計画を、少しずつ変えながらも毎年繰り返すことに慣れている私たち教員にとっては、「子どもがどのような問いをもつか?」「今年は何に着目するか?」と、先行き不透明になりがちな探究学習を苦手とする様子が見られます。
算数であれば「1足す1は2です」と、答えをしっかりと示してあげることができますし、そのことをもって、先生であると実感することもあるでしょう。
しかし、探究となるとそうはいきません。クラスで課題をまとめようとすると、なかなか決まらないこともよくあります。すると、1時間、また1時間と「なにもしない」時間を過ごすことになるわけです。
さて、最近手にした本に『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』というものがあります。
本書では、ネガティブ・ケイパビリティを「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」「性急に証明や理由を求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」と定義しています。
この言葉は、ジョン・キーツ(私は初めて知った名前です)という詩人が残した言葉だそうです。著書の中には、どういった経緯でこの言葉が語られ、現代に導かれてきたのかという軌跡が描かれています(ご興味がある方はぜひ手にしてみてください)。
実は私自身がこのネガティブ・ケイパビリティという言葉と出会ったのは、本を読むより2年ほど前の、とある研修でした。その研修の場で市の指導主事の先生が口にされた言葉がずっと耳に残り、この本を手にしたわけです。
さて皆さんは、この耐える能力が備わっているでしょうか?というより、意識して育ててこられたでしょうか?
「なにもしない」を前向きに楽しむ!
先に示したような、時間とともにどんどん発展していく社会においては、あまり重視されてこなかったネガティブ・ケイパビリティという能力。
しかし、もしかするとこれからの時代にはとても大切な能力の一つとなってくるかもしれません。
探究学習が示してくれる通り、多くの人とともに、同じゴールに向かうための合意をしたり、課題を見出したりする場面では、そういったまったく前に進まない時間がどうしても生まれてくるのでしょう。
一昔前のように、ある程度レールが敷かれた世の中から、レールの長さや形、敷く向きまでを自分たちで創造していくことが望まれる今の社会においては、きっと大切な能力になるはずです。
そういった時代を子どもとして生きてきていない私たち大人にとっては、まずはなじむことから始めないといけないのかもしれません。
だからこそ、「なにもしない」場面に出会ったときは、「これが噂の“なにもしない”だな!」と、腹をくくってその状況を楽しむくらいの気概が必要なのかもしれません。
書き終えた今、改めて大学院での生活が「今までの自分を解体し、次の自分へと成長していくための時間だな!」と、自覚することができました。
もし皆様にもそういった機会があるならば、ぜひ手を伸ばしてみてください。「なにもしない」を一緒に楽しみましょう!

友弘 敬之(ともひろ たかゆき)
明石市立鳥羽小学校 教諭
「単元学習」をテーマに学び続けてきました。その中で、「学習デザイン」「実の場」「問い」と、興味を広げてきました。今は「そもそも学びってなんだろう?」という問いと向き合っています。それは、子どもの学びだけではなく、教師としての、また大人としての学びも含みます。この学びの場を通して、私の問いを解決していきたいです。
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