2025.12.14
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子どもの読みが深まらないのはなぜか──国語・物語授業の分解と読解力を伸ばす視点

子どもの読みが深まらないのは、子どもの力のせいなのか。それとも、授業のどこかに「見落としている構造」があるのか。
毎年のように扱う物語教材ですが、その奥に潜む「読みの階段」は意外と見えにくいものです。
今回からしばらく、物語授業のつくり方を分解しながら、子どもの読みが「もう一段上」へ進む瞬間を一緒に探っていきたいと思います。

明石市立高丘西小学校 教諭 川上 健治

なぜ、子どもの読みは「そこで止まる」のか

今回からしばらく、国語の物語授業について連載してみようと思います。毎年必ず扱う教材なのに、実は「どう教えるか」が一番難しい世界。子どもの読みがどこで止まってしまうのか、どうすれば「もう一段上の理解」へ導けるのか。現場で悩んできたこと、実践の中で見えてきたこと、研究でつかんだことを、少しずつ丁寧に書いていくつもりです。私の大きなテーマは一つ。「子どもはどこまで読みを深められるのか。そして、その階段はどうつくれるのか」。今日はその連載の第1回。まずは、そもそも「なぜ読みが深まらないのか」という話から始めたいと思います。

授業で「ごんぎつねを読んで感じたことを書こう」と声をかけると、子どもたちからは実に素直な言葉が返ってきます。「ごんがかわいそう」「兵十がひどい」「ごんが死んで悲しい」。学級が変わっても、学校が変わっても、この光景は驚くほど共通しています。しかし、そのたびに胸のどこかで小さな引っかかりが生まれます。「ここで終わらせていいのだろうか」と。子どもたちは本当に「これ以上先の読み」に到達できないのか。これは「ごんぎつね」に限ったことではありません。「ちいちゃんのかげおくり」「スイミー」「海の命」など。そんな疑問を抱くようになったのは、私自身の授業がうまくいったり、逆に失敗したりしながら、読みが深まる瞬間に立ち会ってきたからかもしれません。

活字離れが叫ばれて久しい中、「最近の子は深く考える力が弱い」と言われます。でも本当にそうでしょうか。私はそうは思いません。子どもたちは決して深く読めないわけではない。ただ、深く読むための「階段」がそこに用意されていないだけだと思うようになりました。階段がなければ、どれほど素直で思考力のある子でも、抽象的な世界には手が届きません。まず、この前提をひっくり返さない限り、どれだけ丁寧に語りかけても深い読みには届きません。

「いい授業」で終わっていないか

国語の物語教材の授業には、長く心情中心の伝統があります。「気持ち悪いほど気持ちを聞く」という定説?があるほどです。戦後から続く心情理解や感動の共有は、心温まる授業が成立しやすいこともあり、私自身も追い求めていました。しかし、文学作品における授業の一つの価値は、「自分なりの世界を創り出す過程で、ものごとの本質を捉えようとする」力、すなわち文学的認識力の育成だと考えます。

では、現場ではどうでしょう。心情理解で終わり、感想を書いて終わる授業を、私たちはまだ続けていないでしょうか。もちろん、それをすべて否定するつもりはありません。例えば、「海の命」をみんなで読み、「なぜ太一はクエをうたなかったのか」を交流して、太一の生き方に思いをはせることも、また一つ、子どもたちと作り上げた素敵な授業実践になっている先生方もたくさんいらっしゃると思います。

ただ、そこで終わっていると、そのままでは抽象的な概念には届きません。「ごんぎつね」でいえば、誤解や葛藤、許すとは何か、思いやりの難しさといった、私たち大人でも悩む深い問い。そこに向かう道筋が、授業の中にそっと仕組まれていない限り、子どもは一生懸命読みながらも手前の世界にとどまってしまいます。

そして、もう一つ現代的な問題があります。今はSNS全盛の時代。そこから、流れてくる素敵な実践。次の日にすぐ使える発問とワークシート。私も何度も救われました。しかし、これらをそのまま単元の上に置くと、授業がつぎはぎになります。子どもたちの読みは、点で止まり、線にならず、面へ広がらず、積み上がるはずの理解が、そこで止まってしまうのです。今日の授業が良かっただけでは、深い読みは生まれません。教師が意図的に手がける連続性こそ、読みの階段の鍵なのです。

読みを深める三つの段階

さらに、子どもが抽象へと向かうためには道具が必要です。伏線を追う力、対比を捉える力、場面同士をつなぐ力、構造を読む力。いわゆる「方法知」です。これが授業の中に埋め込まれていないと、ラスボスに武器なしで挑むのと同様、子どもは抽象世界に飛ぶための踏み台を失ってしまいます。逆に、方法知という道具さえ手に入れば、子どもたちは驚くほど柔軟に読みを広げていきます。抽象的なテーマに向かう姿は、本当に素敵なものです。

では、子どもをどうやってその階段へ案内していくのか。私はここ数年、この問いを軸に授業を組み立て、研究を進めてきました。そして一つの結論に行き着きました。それは、子どもの理解は学力、概念的理解、文学的認識力という三つの段階を踏んで発展していく、ということです。最初に、論理的に読む力や理由を述べる力といった基盤が必要です。これが「学力」です。そのうえで、作品内部で誤解や思いやり、すれちがいといった概念を捉え直す段階が訪れます。これが概念的理解です。そして最後に、その概念を現実社会や他の作品、自分のこれまでの経験と結びつけ、さらに高次の抽象的・価値的な概念へと深化していく段階がやってきます。これこそが文学的認識力です。

私の実践で行った「ごんぎつねのアナザーストーリーを書こう」という活動で、子どもが、「優しさは受け継がれていくものだと思う」「相手の気持ちを理解しようとすると関係が変わる」と表現しました(詳しくは後日掲載予定)。私は、深い読みは偶然ではなく、設計さえすれば、この段階へたどり着けるのだと思いました。

深い読みは、教師がつくる橋渡しによって、子どもは確実にそこへ向かいます。
次回からの連載では、この橋渡しをどう仕組むのかについて、具体的な場面とともに紹介していきます。現場で迷いながら、試行錯誤してきた私自身の実践とともに、子どもの読みが「跳ぶ瞬間」を一緒に探っていただけたらこの上なくうれしいです。

川上 健治(かわかみ けんじ)

明石市立高丘西小学校 教諭
クラスの全員が楽しく学び合い「分かる・できる」ことを目指して日々授業を考えています。また、様々な土台となる学級経営も大切にしています。

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