多様性は選択ではなく、存在論的前提 ― 配慮から始めず、学級経営として考える ―
多様性は尊重すべき価値。
学校現場では、そう繰り返し語られる。
もっともであり、誰も異論がないであろう。
今回は、教育サークルで行った講演のテーマ「多様性を尊重した学級経営・学習指導」を基に論じる。多様性を単なる配慮の対象ではなく、生存戦略として捉え直し、すべての児童を包括する学級づくりの在り方を提案したい。
目黒区立不動小学校 主幹教諭 小清水 孝
生まれた時点で多様性に満ちている
「多様性を尊重する」とは、単なる理念ではなく、具体的に“どう児童に関わるか”という実践の連続である。私は、20年間小学校教育に携わり、MBAで組織マネジメントや知識創造を学んできた。その中で、多様性の本質を「個人の違いを肯定すること以上の概念」として再考する必要性を感じてきた。
講演ではまず、生物学の基本に立ち返った。
「有性生殖」と「無性生殖」である。
無性生殖は「早く」「確実に」増えるが、「環境変化に弱い」。場合によっては、一気に全滅する。
一方、有性生殖は「時間がかかり」「不確実」だが、「多様な子孫を残す」ことで絶滅を回避するという強みをもつ。
私たち人間は、有性生殖によって多様性を得ることで、絶滅を回避してきた。天然痘、コレラ、新型コロナウイルス。過去に膨大な数の人が亡くなったが、絶滅は見事に回避している。有性生殖の生物にとって、「多様性は生存戦略」であると言える。
この視点は、教室にいる一人ひとりの違いを捉えるときに極めて示唆的である。児童は「多様であるために存在している」。その違いは偶然の産物ではなく、生き残りのための戦略である。
朝井リョウ『生殖記』の中の一節にもあるように、個体が生まれた瞬間に「すでに役目を果たした」ほどに、人間は本質的に多様だ。
「配慮が必要な児童=多様性」という誤った解釈
学校現場では、「多様性」という言葉がしばしば「特定の児童」を指し示すときに使われる。発達の凸凹、不登校傾向、医療的ケアなど、いわゆる“配慮を要する子どもたち”が多様性の象徴として扱われがちだ。
しかし、これは視野の偏りを生む。
講演で私は、日常の一場面を紹介した。
- 中休みに指導されたのに、昼休みに再び同じ過ちをする子
- 絶対に体育館に移動しない子
- 給食時間以外は寝ている子
- 机の中を整理しても3日後には元に戻ってしまう子
一見「配慮が必要」なのは彼らかもしれない。しかし、生物学的に言えば、いわゆる教師の視点で“問題がないように見える子”も本質的には同じように多様である。
「多様性を尊重する=特定の児童へ配慮すること」という構図をつくってしまうと、学級全体を包摂する視点が失われてしまう。多様性はすべての児童の属性であり、特定の児童に貼るラベルではない。ここに、多様性理解の再構築が必要である。
“データにならない人たち”への眼差し
MBAの学びの中で、マーケティングの「網にかからない人々」の存在を知った。元マーケティングプランナーの僧侶・福井良應氏は、企業は収益性が低い層にはリーチしづらいという指摘している。
誰からも見られていない人たちがいる
→データがない
→データになっていないから改善されない
→改善されないから放っておかれる、見なかったことにする
という構図である。
教育にも同じ現象がある。統計に現れない数値。相談に来ない保護者。声を上げない児童。表面的には問題がないように見えて、実は日常に潜むSOSに気づくことができない。データに現れないからこそ、支援の網からこぼれ落ちる。
講演資料では、寺院のお供えをひとり親家庭などへ提供する「おてらおやつクラブ」(認定NPO法人)や、児童養護施設、カカオ農園の兄弟の事例を通して、“可視化されない子ども”の存在を伝えた。
「多様性を尊重する」とは、データにならない子どもに想像力を働かせることでもある。
その視線が学級経営に深みをもたらす。
「差別を学ぶ」ことで多様性の土台をつくる
講演の後半では、「データにならない人たち」「差別を乗り越える」を題材とした模擬授業を行った。ハンセン病の歴史を学ぶことは、“自分は差別する人間ではない”という思い込みを揺さぶる。
私が作成したスライドには、次の問いが何度も登場する。
「本当に,自分は誰も差別していないのか?」
差別は過去の話ではない。ハンセン病元患者の宿泊拒否事件は、20年ほど前に実際に起こっている。
親鸞の言葉に「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり 」とある。「自分は差別をしない人間だ」などと油断した瞬間、差別の心は、鎌首をもたげて私たちのもとへやってくる。
多様性の教育とは、「違うことを認めましょう」と教えることだけでは心許ない。人間の中にある排除の本能と向き合う学びでもある。イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、著書『サピエンス全史』の中で、ホモ・サピエンスが他のヒト属を駆逐して繁栄したと述べている。人間は多様性を生存戦略としながらも、自分とは異なるヒト属を排除してきた歴史がある。
排除の本能と向き合い、ふと静かに自分を見つめる。こうした日々のリフレクションの継続こそが、「多様性の尊重」に直結する。
多様性を再定義する――3つの視点
資料の最後で提示した“多様性のまとめ”は、学級づくりの指針そのものである。
(1)生物学的多様性
多様性は、ヒトが生き延びるための仕組みである。多様性を認める・認めないの立場を選ぶことがそもそも不可能である。
(2)教育的多様性の再解釈
特定の児童だけを「配慮の対象」とするのではなく、すべての児童が多様性の当事者であるという前提で学級を設計する。
(3)データにならない人への想像力
表面化しない課題、声を上げない児童への眼差しを持つ。その子がデータにならない理由を問い続ける姿勢が、多様性を支える。
おわりに――“いなかったことにされる人をつくらない”学級へ
学校は、社会の縮図である。生物学的にも哲学的にも、そして社会的にも、私たちは多様性の中心で生きている。
それにもかかわらず、学校は時に“みんなと同じように”を追求してしまう。しかし、それは生存戦略に反し、教育の根本にも反する。
多様性を尊重する学級経営とは、すべての児童を「そこに居ていい存在」として扱い、「いなかったことにされる人」を生まないことである。
その基盤をつくるのは、教師のまなざしであり、そのまなざしを支えるのが理論と学びである。
教育とMBAの両方の視点を往還しながら、私は今後も“多様性を生かす学級経営”を、現場と研究の両輪で探究していきたい。

小清水 孝(こしみず たかし)
目黒区立不動小学校 主幹教諭
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現場で使える技術、できる実践、リアルな指導法を日々追究しています。
現場の先生方、共に考え、指導法の選択肢を増やしていきましょう!
NPO教育サークル「GROW5th」代表。
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