2025.10.24
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子どもが知識を創造する教室 ―SECIモデルで読み解く「足ポーン海老」の学びー

できなかった後転が「足ポーン海老」でできた瞬間。
そこにあったのは知識の伝達ではなく、知の創造だった。
子どもたちは、今日も互いの中に新しい知を見いだしている。
教育とMBAに見る知の編集をつづる。

目黒区立不動小学校 主幹教諭 小清水 孝

はじめに――生成AI時代に問われる「知識」とは何か

生成AIが急速に発展するいま、社会のあらゆる場面で「知識の再構成力」が問われている。企業においても、既存の知識を守るだけではなく、新たな知を生み出す「知識創造企業」こそが競争優位を築くとされている。

経営学者の野中郁次郎氏が提唱したSECIモデル(知識創造理論)は、まさにそのプロセスを明らかにした理論である。

MBAでこの理論を学ぶうちに、私は次第に思うようになった。――この知識創造の理論は、企業だけでなく、子どもたちの学びにも適用できるのではないかと。

知識は固定されたものではなく、生成されるもの

DIKWモデル(データData、情報Information、知識Knowledge、知恵Wisdom)は、データから知恵へと至る情報の階層構造を示す。知識は単なる情報の集積ではなく、文脈を得て初めて意味をもつ。

哲学の世界では「正当化された真なる信念(Justified True Belief)」として知識が定義されてきたが、現代社会では知識は固定的ではなく、状況や関係性によって絶えず変化する動的な概念として捉えられるようになった。

この視点を教育に持ち込むとき、「知識とは何か」「学ぶとは何か」という問いが新たに浮かび上がる。

行動主義と構成主義――教育における知識観の転換

教育の歴史をたどれば、行動主義と構成主義という二つの潮流が見えてくる。
行動主義はB.F.スキナー(1904–1990)によって体系化された。学習を「刺激―反応」の連鎖とみなし、正しい知識を教師が学習者に伝達する立場である。ここでは知識は「外から与えられるもの」として位置づけられる。

一方、構成主義はジャン・ピアジェ(1896–1980)やレフ・ヴィゴツキー(1896–1934)らによって発展した理論である。知識は学習者が環境や他者との相互作用の中で構築するものであり、学びとは「自らの意味づけの営み」だとする。

私は、日々の教育実践において、この構成主義の立場を重視している。なぜなら、知識は「教え込むもの」ではなく、「生み出すもの」だと感じるからである。

マット運動の授業で見えた知識創造のプロセス

ある日の体育の授業。3年生のマット運動中に、Aさんが泣いていた。近くにはBさんがいた。私は一瞬、「Bさんが泣かせたのか」と思った。だが話を聞くと、Aさんは「後転ができない」と悩んでいたのだった。

AさんはBさんに後転のこつを尋ねた。Bさんは「足ポーンだよ」と答えたが、Aさんにはその意味がわからない。Bさんも「ぼくは分かっているけれど、言えない」と困惑していた。彼は身体感覚として後転を理解しているが、言語化できない――まさに暗黙知で留まっている状態であった。

そこにCさんが登場した。「海老みたいにポーンとやればできるよ」と言い、実際にやってみせた。Bさんが「それそれ!」とうなずいた。Aさんが挑戦すると、ぎこちないながらも後転に成功した。私はこれに驚いた。Aさんは笑顔を取り戻した。3人は「足ポーン海老」と名付け、「自分たちのこつ」として学級全体の前で発表した。

さらに驚くのは次の現象である。「足ポーン海老」が流行し、学級の8割程度が後転を習得した後転のポイントは回転加速力の生成にある。しゃがみ立ちの姿勢から臀部を遠くに着くことは、回転加速力を生成するために有効である。子どもたちはその本質を身体感覚(body memory)と比喩(metaphor)を通して掴み取ったのである。

教室に息づくSECIモデル――子どもたちは知識創造者である

この出来事をSECIモデルの視点から見ると、驚くほど理論と一致する。

S(共同化):Bさんがもつ暗黙知を周囲が観察し、共有する。

E(表出化):Cさんが「海老みたいに」と比喩によって知識を言語化する。

C(連結化):Aさんがその知識を自らの身体運動と結びつけて再構成する。

I(内面化):クラス全体がそれを取り入れ、新たな暗黙知を溜め込む。

企業における知識創造モデルが、子どもの学びの中でも自然に起こっていたのだ。ここに、知識創造理論の普遍性がある。

教師の役割――「教える人」から「つなぐ人」へ

このエピソードは、教師の役割を根本から問い直す。行動主義的な立場では、教師が正しい知識を提示し、段階的に練習させることが求められる。
しかし、構成主義的な学びでは、教師は「知識の伝達者」ではなく、「知識を紡ぐ支援者」となる。
子どもたちは既に「何かを知っている」。その未熟で未整理な知識を、他者との関わりの中で磨き上げていく。その過程を支えることこそ、教師の専門性である。

AIがどれほど進化しても、子どもの暗黙知を感じ取り、引き出し、つなぐ営みは人間にしかできない。小学校の教室は、まさに知識創造の最前線なのである。

おわりに――知識を「教える」時代から「創る」時代へ

人生100年時代、そして生成AI時代を生きる子どもたちに必要な力は、「正しい知識を知ること」ではなく、「知を生み出す力」である。
Aさん、Bさん、Cさんのように、互いの知を紡ぎながら新しい意味を見いだす。その瞬間こそ、最も豊かな知の創造の場であり、未来社会を生きる力の源泉となる。

 ――知識は教えられるものではなく、共につくられるもの。
一枚のマットの上に広がるその小さなスパイラルこそ、これからの教育の希望のかたちである。

小清水 孝(こしみず たかし)

目黒区立不動小学校 主幹教諭


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現場で使える技術、できる実践、リアルな指導法を日々追究しています。
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NPO教育サークル「GROW5th」代表。

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