2022.04.04
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あなたの文学作品を扱う授業の「目的」は何ですか?

タイトルにも書きましたが、あなたは、文学作品を扱う授業において何を目的に授業をしていますか?
これは、何を大事にしているかという「教育観」にも通ずるところです。今回は、この「目的」について書いてみました。ただ、これはあくまで私見ですし、教師それぞれの「目的」があっていいと思っています。一つの参考程度に見ていただけたらと思います。

明石市立錦が丘小学校 教諭 川上 健治

今期も連載させていただくことになりました明石市立錦が丘小学校の川上健治です。今期も、「文学作品」の授業に焦点を絞って、自分で勉強したことを紹介していこうかと考えています。何かの参考になれば幸いです。

さて、今期の第1回目は、文学作品を扱う授業にあたっての想定される「学力」について紹介します。特に、現場では、文学作品の授業は、「気持ち悪いほど気持ちを問う」授業に陥りがちです。ややもすれば、ほとんどの中心発問が、「〇〇の気持ちはどうだろう?」や「〇〇の気持ちはどう変わったのか?」などになってはいないでしょうか?それは、教師側が、この文学作品で児童の学力のどの部分を身に付けさせたいのかを明確に措定できていないことが原因として挙げられます。

この問題については、古くからあります。例えば、野口(1992)は、「国語科の授業は、どうも『学力形成』という自覚に乏しいように思われるからである。『楽しんで読む』とか、『人間形成に資する』とか、『心情面を理解する』とかという心情面の曖昧なねらいが授業の方向を決め、『学力向上』『学力形成』という視点からの授業論が一般にかすんでいるように思えてならない。」[i]と述べています。
このように、国語科の中でも取り分けて、文学作品で何を教えるのかという問いは、新旧問わず不易の課題であると言え「どのような力」で「人間に育てていく」のかという育成すべき力の具体が問われています。では、教師は文学作品を扱う授業において、何を目的とし、どんな目標をもちながら授業をしたらよいのでしょうか。

1.文学作品を扱う授業において学習する目的―文学的認識力の育成―

私は、文学作品を扱う授業においての目的の一つに「文学的認識力の育成」があると考えています。そもそも、「文学的認識力」とは、文学作品を読み味わい、自分なりの世界を創り出す過程で、抽象的、形象的にものごとの本質を捉えようとする力のことです。文学作品は、作者が虚構の世界で人間の本質を表現しています。例えば、動物がお話をするということは、現実では起こりえません。しかし、文学作品ならばそれを可能にします。そして、物語という虚構の世界で動物に語らせることによって、現実の本質的な部分を表現することを可能にします。そこでは、「論理的」に思考すると、考えられないようなことを主人公はします。

これは、「モチモチの木」の「豆太」がいい例ではないでしょうか。「論理的」に考えると、5歳の弱虫の幼子が真っ暗闇の中を一人で山を下りることなど現実では不可能です。しかし、「弱虫でも勇気があればできる」ということを形象的にこの作品は語っているのです。そこから抽象的に「弱虫でも大切な人のためならば、勇気をふりしぼることができるんだ」「人ってそういうものなのかな」という「文学的な認識」を確かにするのです。
田近(1986)も、「人の日常は、そこで直面すべき現実の問題を隠蔽する。言うまでもなく日常生活こそ、人が直視すべき現実そのものであるはずだが、たとえば子どもの場合、塾や部活、週刊誌やテレビ、ファミコンなどに追われる多忙な日常は、直面しているはずの現実を見えなくする。文学は、それを読み手の前に突き出す。すなわち、日常の中で見えなくなっている人間の現実を、具体的なもの・こととして描き出す。読み手は、そのような文学を読むことで一つの世界を創り出し、そこで、ふだん見すごしている現実と出会うのである。」[ii]と述べています。

従って、文学作品を扱う授業において、「文学的認識力の育成」はとても重要な要素であると思います。

2.文学作品を扱う授業において学習する目的―言語化能力の育成―

一つ目の文学的認識力を育むという目的が、所謂「文学教材を教える」ものであるのに対して、この二つ目の「言語化能力の育成」は、「文学教材で教える」ものであると言えます。
甲斐(1985)は、「文学教育と言語教育という二元論的見方は通用していない」[iii]とし、「いずれか一つではなくて両方の学習指導が大切であって、両者をどのように構造化し、有機的に関連付けるかを深める段階にきているのである」と述べています。また、文学的認識力を育む上で、いくら人間の本質を捉えられたからといって、それを言葉にできなければ意味がありません。
井上(2007)も「子どもは、生活の中でいろいろ経験したことを言語によって意識化し、さらに抽象化・一般化することによってそれを知識(科学的)概念として頭の中に定着させる。」[iv]と述べ、言語化することの重要性を説いています。

現実世界や人間の本質を理解する際に、それを言語化することで、より確かに捉えることができるのです。これが、単元終末に設定されるいわゆる「言語活動」に結びついていくのです。従って、並列的に「言語化能力」を目的の二つ目に配置することは必要であると思っています。

まずは、教師側の「教育観」として、これらの目的を軸に指導をしていくと指導が大きく外れることはないと思います。まだ、文学作品を扱う授業が始まっていない今だからこそ、しっかりと自分の「教育観」を確立しておきたいものですね。


[i] 野口芳宏「『向上的変容論』ではこういう『学力』をめざす」『現代教育科学 35巻2号』明治図書、1992年、p.30

川上 健治(かわかみ けんじ)

明石市立錦が丘小学校 教諭
クラスの全員が楽しく学び合い「分かる・できる」ことを目指して日々授業を考えています。また、様々な土台となる学級経営も大切にしています。

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