2020.06.14
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発達障害のある子どもへの支援の実際(NO.2)

特定非営利活動法人TISEC 理事 荒畑 美貴子

前回、R.シュタイナーが人間を4つの部分から成り立っていると捉えていたこと、それを、車を運転する人間としてイメージするとわかりやすいのではないかということをお話ししてきました。今回は、その話を進めて、シュタイナーが発達障害をどのように捉えていたのかについてお伝えしていこうと思います。

肉体と内面のイメージ

図Aをご覧ください。私たちは誕生の際に肉体を得ますが、その肉体は両親からの遺伝的な影響を受けています。そのせいで、肉体を車にたとえると、高速道路を200キロメートルで走ることができるような車であったらよかったと思ったとしても、あるいはスポーツカーのようなカッコいい容姿が良かったと思ったとしても、なかなか理想通りにはいきません。小回りはきくけれど、スピードを出すには向かない軽自動車のような肉体が与えられるかもしれませんし、赤い車が好みだったとしても黒い車が与えられるかもしれないからです。

もちろん、その肉体の特徴は、遺伝だけが左右するものではありません。環境やその他さまざまな要因が影響します。そうであっても、私たちはそれぞれ異なった特徴のある肉体をもつのです。

 
次に、人の内面に目を向けてみましょう。感覚や感情、個性には、さまざまな特徴があります。「大きな音が苦手」「いつも穏やかな気持ちで生活できる」など、内面に起こることの特徴をレーダーチャートで表すことができれば、その人の個性が見えてくると思います。そして私たちは、そのレーダーチャートの中心に立ち、やじろべえのようにバランスを取って生活していると言うこともできるのではないかと考えます(図B)。

普段は穏やかな人だと思われていても、疲れているときには感情が大きく揺らぎますし、人との関わりを避けることがあるでしょう。でも、エネルギーをチャージできれば、その傾きを修正できるようになります。疲れだけではなく、さまざまな要因によって、心は揺れるのです。そして、何らかの対策をとりながら修正をかけ、バランスを取りながら生きているのです。

しかし、そのような特徴の一部が突出して現れる場合、人は相手との違いを意識します。自分の意に染まないことがあると急に大きな声を出す、人との関わりを避けるなど、誰にでもある特徴であったとしても、それが極端な場合に自分との違いを感じるのです。私は、このようにやじろべえの傾きが大きく見えるような姿を、私は発達障害とイメージしています。

私たち自身の根本の部分である自我には、障害はない

これまでの話を少し整理してみましょう。

シュタイナーは人を肉体と、それに命を与えているエーテル体、感覚的なものや感情的なものを担っているアストラル体、人間固有の自我の4つの部分から成るとしました。

生きる肉体は、誕生と共に提供されますが、それは完璧に理想通りとはいきません。弱い部分も未熟な部分も備えているのです。そこに命を与えている力にも、個人差があるでしょう。心も同様です。一人ひとり異なる感覚を持ち感情を生んでいるのです。そして、車を運転する際に指令を出している自我、思考を担う自我にも個性があるのです。

さて、もし自分がスピードを出したいと思っていても、思うような速度を出せない車が与えられていたとすれば、どのような気持ちになるでしょうか。そこにはイライラが生じるのではないでしょうか。一方、理想に近い車を与えられたとしても、環境が最悪で道路が凸凹の砂利道であれば、思うような運転はできません。肉体の部分が満足できたとしても、他の要因でイライラが生じ、気持ちの立て直しが難しくなることもあるのです。やじろべえのバランスが崩れるということです。

ここに発達障害を捉える、最も大切なポイントがあります。このようなイメージの中で、イライラしてしまうのは、その人(自我)が悪いのでしょうか?それとも、肉体のどこかに不具合を抱えていることが原因となっているのでしょうか? 生命力の部分に課題があるのでしょうか? 感覚が人と異なるのでしょうか? 

私が最も強調したいのは、私たち自身の根本の部分である自我には、障害はないということです。宿った肉体に不具合が生じているとか、運転の技術が未熟であることなどによって、外側から見た姿が自分とは異なっているように映るのです。それを、便宜上発達障害と呼ぶことがあるということです。そして、私たちは誰もが完璧な存在ではなく、「普通」とか「標準」という枠に入っているように見えるのは、ただ上手くバランスをとって生きているにすぎないということなのです。

バランスをとって生きていくには

では、どのようにしたらバランスをとって、生きていくことができるようになるのでしょうか。

ひとつには、不具合があれば程度によって医療的な側面からアプローチすること、身体を整えることや食事・睡眠に気を付けることなどが考えられるでしょう。人的・物的環境を整えることも必要かもしれません。そして、運転技術を磨くとか、交通のルールを学ぶ、あるいはメンテナンスの方法を獲得していくことも必要になります。もちろん、それによって完璧になると言っているわけではありません。しかし、生きやすくなるということは確かだと思います。

それから、周囲の意識が変わることも、生きやすさの助けになります。ある人が、困難さを抱えているような言動を示しているのを見たときに、自分にもそういう側面があることを思い起こすことができれば、手助けの方法が思い浮かぶかもしれません。その人は困難さを抱えているにすぎないことを理解できるようになれば、偏見は生まれにくくなります。私たちが寛容であることで、寛容な社会を作っていくことができるのです。

シュタイナーは障害のある子どもたちを、「魂の保護を求める子どもたち」と表現しました。できないことや困難さを抱えている子どもたちは、「守るべき存在」であると明言したのだと思います。これは、障害がある人たちに対する見方の大きな転換になると思います。

私たちはそのために何ができるのか、次の回からは、具体的な対応の方法について考えていきたいと思います。

【参考文献】

『治療教育講義』(筑摩書房、ルドルフ・シュタイナー著、高橋巖 訳)

イラスト:まつやま登

※当記事のすべてのコンテンツ(文・画像等)の無断使用を禁じます。

荒畑 美貴子(あらはた みきこ)

特定非営利活動法人TISEC 理事
NPO法人を立ち上げ、若手教師の育成と、発達障害などを抱えている子どもたちの支援を行っています。http://www.tisec-yunagi.com

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