2020.04.09
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「発問」ってなんだ?(発問研究 Vol.1)

我々教師が磨くべきものは、「授業技術」よりも「感性」である。拙著『3つの"感"でつくる算数授業』(東洋館出版社)には、そう書いた。なぜなら、「心なき技」は形骸化してしまう恐れがあるから。まずは「心」ありきだと言いたかったのだ。

ここでは、「授業技術」について述べる。中でも筆者が一番大切だと思う「発問」に焦点を当てる。

「心なき技」ではなく「心ある技」を使える教師になりたいものだ。

高知大学教育学部附属小学校 森 寛暁

発問について考えを巡らせてみる

発問。
発問。
発問。 それは何のためにあるのか?
もし、なかったらどうなるのか?
それに代わるものはないのか? あれやこれやとぐるぐると考えを巡らせてみよう。 すぐにインターネットで検索したり、辞書を引いたりせず、一度自分の言葉で表現することから始める。書いてみてしっくりこなければ調べればいい。

発問に対する「3つの問い」

何のため?
「発問」の目的は、子どもの思考を促す・深めるためである。
「考えたくなる」「考えざるをえなくなる」そんな状態だろうか。
いずれにしても、本時の目標に迫るための教師の働きかけのための「発問」であろう。 なかったら?
この問いは考えたこともない。いわば「考えざるをえない」状態になってしまった。
発問がないと授業は成立しないだろう。「〜しましょう」と指示ばかりの授業では、優れた仕掛けがない限り子どもの主体性は引き出せないし、学びは深まらない。かといって、「〜を考えましょう」と教科書一辺倒の言い方はよいとは言い難い。 代わるもの?
ない。
あるとすれば、「子どもの問い」である。
つまり、教師が問いたいこと(=「発問」)を子ども自らが問うということ。
例えば、4年生の算数「わり算のきまり」を見出す際に、「きまりを見つけましょう」と教師は決して言わずに、問題提示や板書を工夫する。子どもの声・つぶやきや表情を見取る。積極的に待つ。すると、「あれ!?」「なんか…」と子どもが言い出す。その素直な問いが徐々に教室全体に広がる。「何か見えてきた!」「もしかして、…」と言い出すかもしれない。 このように「発問」を巡って考え、自分の言葉で表現してみた。
「発問」に対する「3つの問い」は、「発問」そのものだったように感じている。 読者の先生方も一度、言語化してみてほしい。
完璧なものを書く意識ではなく、現段階での一つの答えと捉えてみると意外に指が動く。筆者の答えと比べたり、研究仲間に問うてみたりするとより自分の考えが強化されるのでないだろうか。ぜひ行ってほしい。

連載をスタートして

ここまで、「発問」について書いた。
今の気持ちは、正直重い。
全9回書き切れるのか不安である。
でも、「自分がどんなことを書くのだろう」と期待もある。 さて、どうなるか?
次回も、「発問」について感じていること、見えていることを素直に綴っていく。
「未来の発問」について実際の授業事例を通して述べたい。

森 寛暁(もり ひろあき)

高知大学教育学部附属小学校
まっすぐ、やわらかく。教室に・授業に子どもの笑顔を取り戻そう。
著書『3つの"感"でつくる算数授業』(東洋館出版社

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