「主体的」
この言葉を使うのは簡単だけど、簡単には使えない。
前回、記事を書いてから改めて考えています。
「主体的」って何なのか。
私自身、勘違いの「主体的」になってしまってはいないか。
そんなことばかり考えています。
そもそも「主体的でない」状況ってどんなものだろう。
何個か例に挙げて考えてみる。
「決まりきったことを、ただこなしていく。こなさないといけない。」
例えば、理科の実験。
とりあえずやらなければならないから実験する。
よっぽどだと、教科書を読んでそのまま実験をこなしていく。
形式的な予想と考察だって同じ。
ただこなしているから、みんな同じような予想と考察。
「教師の素晴らしい?発問にただ答えていく。答えを探していく」
例えば、国語の授業。
物語を読み深めるために、教師が練り上げた発問について考えていく。
教師が考えている「正解」がそこにはある。
だからこそ、子どもたちはその「正解」に近づこうとする。
発言した子の意見で黒板は埋まり、黒板上ではすごい授業になっている。
子どもたちも、教師からの発問を待っている。
例を挙げながら気づいたことが一つ。
これって、子どもたちのことを無視しているかしていないか。
「いやいや、無視するわけないよ」って。
もちろんどの先生も子どもを大切にしようと思っているはず。
ただ、授業の中でどれだけ子どもたち一人ひとりのことを意識しているだろうか。
子どもたちが気になること、解決したいことって本当にバラバラ。
それをどうやって受け止めながら授業をデザインしていくのか。
単元のゴールって教師にあるかもしれないけど、
子どもたち一人ひとりにもあれば、もっと目がキラキラするはず。
一人ひとりのキラキラが重なると化学反応も起きていく。
だからこそ、子どもたちがじっくりと問いを持つ場をつくっていく。
はじめにこんな場をつくるかつくらないかで、単元のゴールに向かう姿が変わってきます。
教師が設定する目標だけでなく、子どもたち一人ひとりに学習目標ができます。
目指すところがないと、自分から動こうとしませんよね。
それは大人も子どもも同じです。
・・というのは簡単。でも実行は難しい。
毎日悩んで悩んで・・の繰り返しです。
子どものことを全然分かっていない自分に気づかされてばかり。
そもそも「子ども主体の授業をしている」と言い切る先生ほど怪しい人はいないなぁと思っています。
子どものことは分からないことばかり。
だからこそ面白いですよね。

若松 俊介(わかまつ しゅんすけ)
京都教育大学附属桃山小学校 教諭
「子どもが生きる」授業を目指して、日々子どもたちと共に学んでいます。子どもたちに教えてもらった大切なことを、読者の皆様と共有していければ幸いです。国語教師竹の会所属。
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