2020.10.15
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「Lifelong Learner」を育てるー印象に残る授業とはー(No.2)

前回は、「自分に必要なことや学びたいという興味関心に合わせて、自主的に学ぶことができる人間」=「Lifelong Learner」を義務教育段階の公立学校で育てたいと考えた時に、「履修証明」「学習の機会均等」という機能を抜きにはできないというお話をしました。では、公立学校で「Lifelong Learner」を育てることは難しいのでしょうか......?


小平市立小平第五中学校 主幹教諭 熊井 直子

「ルール」に縛られているから「やりたいことができない」わけではない。

前回お話した学校のもつ「履修証明」という機能は、学習指導要領に定められた学習内容を、指定された教科用図書を用いて指導するという制限のもとに成立しています。こうした国が定めた教育課程=National carriculumの存在は賛否両論あり、どの程度の内容か、どの程度の法的拘束力があるのか、という点についても国によって様々です。例えば、フィンランドでは、National carriculumは存在していますが、教科書は国が選定しているわけではありません。

日本では、学習指導要領に盛り込まれた内容も細かく、教科書選定も行われているため、指導が画一的になってしまう、というような声も耳にしたことがあります。しかし、国が教育課程を定めているからこそ、地域間や学校間における格差が縮まる、つまり、学習の機会均等が保証されるという働きもあるのです。スポーツにルールがなければ試合が成立しなくなってしまうのと同じように、ルールがあるからこそできることがあるのだと思います。むしろ、ルールがあるからこそ生まれるスーパープレーもあります。制限があるから「やりたいことができない」のではなく、制限下で試行錯誤することで生まれる「新しい指導方法」もあるはずなのです。そうした指導方法については、この「つれづれ日誌」の連載でたくさん目にすることができます。

では、生徒の立場ではそうした授業をどのように受け止めているのでしょうか。今回は、私自身の経験を振り返りながら、印象に残っている先生や授業についてお話してみたいと思います。

授業中寝てばかりいた私が覚えている先生たちのこと

一生懸命授業をしてくださっていた当時の先生方には大変申し訳ないのですが、私は、まじめな生徒ではありませんでした。小学校の頃は、中学受験に向けて勉強をしていたため学校の授業で教わることはすでに勉強したことがある内容で、何をしていたのかほとんど覚えていません。そして受験してまで入学した中学校では、電車通学ということもあり朝が早く、授業では寝てばかりいました。1年生の頃担任の先生に呼ばれて「疲れてるの?」と優しく聞かれ申し訳ない気持ちになったことだけはよく覚えています。

しかし、そんな私でも記憶に残っている先生たちの授業があります。

「自分で調べ、まとめ、発表したこと」が認められるうれしさ

1つ目は小学校の授業です。

私が通っていた小学校では、社会科の研究発表がさかんで、当時としてはおそらく先進的だったのであろう「調べ学習」を中学年の頃から積極的に取り入れていました。調べたことを自分なりにワークシートにまとめて考えたり、ゲストティーチャーにインタビューしたりする機会がたくさんありました。さらに、6年生の時には全国の研究発表会があり、知らない多くの先生たちの前で自分が調べたことや考えたことを発表したりもしました。

私は社会という教科が本当に嫌いで、社会をやるなら国語がやりたい、算数がやりたい、と思っていました。でも、自分が調べたことや考えたことを聞いてくれる第三者がいる、と思うと頑張りたい、という気持ちが生まれました。そして同時に、「私たちが今受けている授業が、他の学校の先生たちの役に立つんだ」といううれしさも子どもながらに感じていたような気がします。嫌いだなと思いつつも、自分がやっていることが何かの役に立っているという実感は、私に学ぶ原動力を与えてくれたと感じています。

好きではなくても心に響く「専門性」の圧倒感

2つ目は中学校の授業です。

先ほども言った通り、中学校では私は授業中寝てばかりいました。だから授業でどんなことをやっていたかというのは断片的にしか覚えていないのですが、その中でも印象に残っているのは詩の授業です。

扱っていたのは島崎藤村の「初恋」。当時の私にとって文語詩の解釈は難しいだけでなく、感性も未熟で詩に対して心動かされることはありませんでした。でも、「まだあげ初めし前髪」とはどういうことか、「林檎をわれにあたへし」ときどのような気持ちだったのか、と、1つ1つの言葉について語る先生の様子は、音読のイントネーションや声の響きと共に今でもよみがえってきます。詩の内容には心動かされませんでしたが、「ああ、本当にこの詩が好きなんだな」という先生の思いには心動かされました。そして同時に、「私もこんな風に深い専門性を身につけたい」と漠然と思ったことも覚えています。こうした「専門性への憧れ」はずっと私の「勉強しなければ」という気持ちの根底にあるように思います。

どうしたら子どもの心を動かすことができるのか

今回紹介した2つの例は、授業としては全く正反対の質をもっています。片や「実践的」で「自主的」で「活動的」である一方、もう一つは「専門的」で「受動的」で「静的」な授業です。他にもたくさんの授業を受けている中、この2つの授業が私の心に残っているのはなぜなのでしょうか。

その答えのひとつは「この学習が何につながるのか」が見えたことではないかと思います。最初の社会科の研究授業であれば、「この学習が他の学校の先生に役立っている」という実感。もうひとつの国語の授業であれば、「こうした学習をつきつめていった姿がとても楽しそうだ」という感覚。そうした「学習の先」を感じることができたとき、「勉強してみたいな」「楽しそうだな」「じゃあ私は何をしようかな」という気持ちが生まれるのではないかと思います。今回の例は私の場合に限定されたものでしかないかもしれませんが、指定された学習内容を「学習した、その先」をひとつのキーワードとして授業を考えてみてはいかがでしょうか。そしてまた、ご自身が受けてきた授業の中で印象に残っているものはないか、そしてなぜ印象に残っているのか、ということを少し考えてみると良いかもしれません。

熊井 直子(くまい なおこ)

小平市立小平第五中学校 主幹教諭
英語もできる国語の先生を目指しています。2016年度に1年間フィンランドの高校で国語の授業を研究していました。英語教育に力の入る今だからこそ母国語教育のあり方を今一度よく考える必要があるのではないかと考えています。

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