2024.03.15
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東日本大震災後生まれの子どもたちと学ぶ(2) 新聞社と連携して震災について学ぶ(さいたま市立植竹小学校 教諭 菊池健一さん)

東日本大震災を取り上げた授業を、さいたま市立植竹小学校 教諭 菊池健一さんが5回にわたって紹介します。今年度は、津波により多数の教職員と児童が犠牲となった宮城県石巻市立大川小学校を再び取り上げます。今回は、震災後に生まれ、震災当時のことを知らない子どもたちが新聞記事を読み、取材した記者へ質問を送るなど新聞を通して理解を深めました。

小学生新聞から大川小の事故について学ぶ

児童のスクラップシート

担当する子どもたちは、東日本大震災の次の年の生まれになります。震災当時のことは知りません。そこで、まずは東日本大震災とはどんな震災だったのかを知ることからスタートしました。私がスクラップした震災当時の新聞記事を毎朝行う「新聞トーク」で紹介し、東日本大震災がどれだけ大きな出来事であったかを児童に知らせました。

児童は国語科で新聞を読む学習を行っているので、
「先生、震災の時には見出しの大きさが違うね。とても大きいよ」
「ほぼ全面、東日本大震災のことが取り上げられているよ」
「写真も迫力があるものが大きく載せられているね」
と、記事を見て、震災がどれだけ大きな出来事だったのかについて、改めて気づくことができました。

語り部をする佐藤敏郎さん

次に、今回中心的な内容として取り上げる、宮城県石巻市立大川小学校について取り上げられた新聞記事を児童と読み、東日本大震災について学ぶことにしました。大川小学校は、大震災後の津波で児童108名中74名、教員10名が亡くなりました。正確にはまだ発見されていない児童もいて、現在も保護者の方が捜索をしています。震災当時、避難するのに十分な時間や場所があったにもかかわらず避難が遅れ、多くの犠牲を出してしまいました。

活用した新聞には大川小学校で亡くなられた児童の保護者であり、現在、大川伝承の会の共同代表として毎週のように語り部の活動を行っている、佐藤敏郎さんのインタビュー記事が掲載されていました。記事から大川小学校でどんな事故が起こったのか、そして佐藤さんがどのような気持ちで語り部をしているのかを知ることができました。

今回、縁があって、佐藤敏郎さんにゲストティーチャーとして児童に話をしていただけることになりました。これまでも、佐藤さんにぜひ受け持ちの児童に話をしてほしいと思っておりましたが、宮城と埼玉で距離がありなかなかお呼びすることができませんでした。今回はZOOMによるオンラインが可能になり、児童に話していただけることとなりました。

ゲストティーチャーへの質問を考える

児童は、佐藤敏郎さんに話を伺えることを知り、佐藤さんへの質問を考えました。児童の質問は授業の前に送り、話に盛り込んでいただくことにしました。児童は佐藤さんが取り上げられた記事を読んでいるので、質問をたくさん考えていました。

佐藤さんに送った質問は以下のものです。

・佐藤さんはどうして語り部をしているのですか?
・震災のことを話しているときに、つらいことを思い出してしまいますか?
・(娘の)みずほさんが亡くなったと知ったときにどんな気持ちでしたか?
・大川小のことを伝えるためにどんな活動をしているのですか?
・佐藤さんの活動の原動力は何ですか?
・震災のことをどんな気持ちで伝えているのですか?

この活動を通して、児童の東日本大震災への関心を深めることができました。

取材した記者への質問を考える

震災遺構・旧石巻市立大川小学校校舎

さらに児童は、大川小学校の取材をした記者への質問も考えました。質問をしたのは、朝日小学生新聞の小貫有里記者です。小貫記者は数年にわたり、東日本大震災の取材をされ、大川小学校のことも記事に書いています。児童は、社会科の「情報」に関する授業でメディアの役割について学んでいるので、その発展的な学習として、読んだ記事を実際に取材した記者への質問を考えました。

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児童の質問と小貫記者の回答は以下の通りです。

Q どんな気持ちでこれらの記事を書きましたか? どうして佐藤敏郎さんに取材をしようと思ったのですか?  

A 佐藤さんや、3月11日に大川小に来ていた人たちの思いを、この場にいない読者のみなさんにちゃんと伝えたいなという思いで書きました。
佐藤さんは、大川小で次女のみずほさんを亡くしました。その後、大川小で何があったかを知ろうと訪れる人たちに向けて案内や説明をする、「大川伝承の会」の共同代表をつとめています。もともと中学校の先生で、子どもたちに向けてお話をするのも上手でしたし、朝日小学生新聞の取材を以前も受けてくれていたこともあり、10年の節目にお話を聞きたいと、取材をお願いしました。

Q たくさんの子どもたちが亡くなった大川小学校を見て、どんなことを感じましたか?  

A 私は、2021年の2月に大川小を一人で見に行き、佐藤さんにお話を聞いた後、3月11日と、7月に大川小に行きました。7月は大川小学校が、震災の教訓を未来に残すために保存していく「災害遺構」に登録されて、となりに展示施設のオープンしたため取材に行きました。
初めて大川小に行ったときには、外かべが流された校舎、たおされて鉄筋がむき出しになった渡りろうかの柱などを見て、津波の力の強さにおどろきました。
津波は、海の波のようなものではなく、水のかたまりが壁のようにおし寄せてくるイメージだそうです。建物もこわすような津波がきて、子どもたちはどんなにこわかっただろう。想像がつかない。と思いました。
小学校の校庭の先に、裏山があります。ここににげたら、みんなの命が助かったのではと震災後に話し合われた場所です。初めて来た私も数分で上がれて、「思ったより簡単に登れるな」と思いました。遊び場にしていた子もいたでしょう。校庭で避難していた大人も子どもも、津波が来たときに、あの山のことが思い浮かんだのではないかと思います。どうしてこうなってしまったのかなと、絶対にもどらない、亡くなった人の命を思うと、とても悲しくなりました。

Q 佐藤敏郎さん以外にどんな人に取材をしましたか?  

A 震災の関連では、震災の語り部として活動をしている人や、2021年3月11日に大川小に来ていた人、石巻での取材でお世話になったタクシーの運転手さんも震災の日のお話をしてくれました。2023年には、大川小に関する映画を撮った、佐藤さんの娘のそのみさんにも取材をしています。この他、震災や防災知識などは、東北大学にある災害の研究をしている研究者にも取材しています。

Q 取材を終えて大川小を去るときにどんな気持ちになりましたか?

A この日は、朝10時前から大川小にいました。地域の人、10年の節目にどんな場所だったのか知ろうとして来たという人、亡くなった人にお経をあげにきたお坊さんの団体、取材にきた他の会社の記者やテレビカメラなどたくさんの人がいまいした。
午後2時46分にサイレンがなり、大川小の周りに集まった人たちが一斉にもくとうをしました。その後、多くの人は帰っていったのですが、まだ残っている人たちがいました。私もこの日は大川小の取材以外予定はなかったので、しばらくいて、少しお話を聞きました。すると、大川小で子どもを亡くした遺族の方たちでした。大川小に津波がきたのは午後3時32分ごろとみられています。それまで残っているといっていたので、私も残りました。これがみなさんにとっての、大事な人が亡くなった時刻なんだとはっとしたのも覚えています。
津波の到達時間は、その場でもくとうをする人もいれば、大川小の外にいって花をそなえて拝んでいる人もいました。遺族の一人のお父さんで、亡くなった子はそこで見つかったそうです。
この日、大川小に来た人の中には、震災によって他の地域で親やきょうだいを亡くした人もいました。大川小で子どもを亡くした人たちも、この10年の過ごし方はそれぞれだったようです。「被災者」「遺族」といっても、一人ひとりのかかえる経験、いまの状況、思いは、だれ一人いっしょではないのです。
東日本大震災では、1万5千人以上の人が亡くなっています。その一人ひとりの後ろにどれだけの人がいるんだろう。取材はしたけれど、すべてがわかった気にはならないで、でも、受け取ったこと、自分がわかったことは書こうと思いました。

Q なぜ、 大川小学校を取材したのですか?  

A 東日本大震災は、午後2時46分ごろに発生しました。学校に子どもがいる可能性もある時間帯です。学校は大切な子どもたちを預かり、何かがあったときには守らなければいけない場所です。でもそこで、これだけ大きな犠牲がでてしまいました。読者が犠牲者と同じ年代の、小学生である朝日小学生新聞では、ここであったことをたくさんの人に知ってもらい、反省や生かすべきことを考えていきたいと思っています。私だけでなくこれまでも、何人かの記者で取材をしてきました。私はそのバトンを受け継いだかたちです。

Q 記事を書いていて苦しく感じたりしましたか?  

A 正直にいえば、なりました。
このときは、取材の前からとっても緊張していました。大川小で起きたことは、言葉に表すのが難しいような、悲しいことです。たくさんの問題もうきぼりにしています。ここで起きたこと、どうして自分の子どもが死んでしまったのかを知りたくても、なかなか解き明かされませんでした。遺族の中には裁判にすることで、事実を明らかにしようとした人たちもいました。このような動きからも、家族を失うということの大きさを感じていました。
そんな中でも佐藤さんは、子どもたちに伝えたいという気持ちをもち、心を開いて取材を受けてくださり、とてもありがたかったです。とてもつらい経験をされたにもかかわらず、私の質問に答えてお話してくださったことをちゃんと受けとめて、読者につなげられるかなと、責任の重大さに苦しくなりました。

Q 被災地の人にどんな気持ちで質問をしていたのですか?  

A 考えや思いを教えてほしいけれど、想像できないような、悲しいつらい経験をしてきた方もいるはずで、聞いてもいいのかなと心配な気持ちもありました。
でも思っていた以上に多くの人が、冷静に丁寧に話をしてくれました。それはきっと、私が小学生に伝えるために聞いているからだったのだと思います。佐藤さんも「せめて、何かにつなげたい」とおっしゃっていいました。何が起きていたのか知ってほしい、同じ思いをする人がでてほしくないと思ってこたえてくれた人が、たくさんいたと思います。

Q 佐藤さんに取材をしたときに、どんなことを考えましたか?  

A 「みなさんはどんなことであっても、家に帰るまで死なないで」に、せいいっぱいの思いがこめられていたと思います。命が、本当に一つしかない尊いものであること、大切な人、家族を失うということの大きさも強く感じました。
そんな経験を、初めて会った私に話してくれた佐藤さんに本当に感謝しています。

Q 被害を受けたたくさんの学校がある中で、 なぜ大川小学校を選んだのですか?  

A 大川小学校は、被災地にある学校の中で、一番たくさんの犠牲者を出してしまった場所だからです。

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これらの活動を通して、児童が震災を自分事として捉えることができていると感じました。この後、自分の家族や小学校の先生たちが、東日本大震災の時にどこにいてどんな様子だったかを取材する活動を行います。また、前述の佐藤敏郎さんにオンラインではありますが、児童に話をしていただくことにしました。さらに児童と学習を進めていきたいと考えています。

文・写真:菊池健一

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