「Nothing」と言われたとき〜『それでも外国語を学ぶのは何のため?』を読んで
北海道大学大学院教育学研究院の亘理陽一准教授の新著『それでも外国語を学ぶのは何のため?』を読みました。
これまでも亘理先生の著書や講演から、外国語教育について多くのことを考えさせられてきました。
学びと同時に、いつも紹介されている本や映画も気になるのですが、それ以上に、自分自身の授業について考える時間が増えました。
外国語を学ぶのは、何のためなのでしょうか。
そんな問いが改めて自分の中にジーンと残りました。
今回は、自身の授業で子どもから「Nothing」と言われたときのことを思い出しながら、外国語を学ぶ意味について考えてみたいと思います。
兵庫県西宮市立総合教育センター 指導主事 羽渕 弘毅
本を読んで思い出したこと
亘理先生の本や論文を読んだり、講演を伺うと、学びが深まるだけではありません。
紹介されている参考文献や漫画を読みたくなったり、映画を観たくなったりします。今回も、もちろんそうでした。
ただ、今回はさらに強い衝撃を受けました。
特に第Ⅱ部の「外国語ができる人は頭が良い?」を読んでからは、心に響くというより、ドンと殴られているような感覚がありました。
「ああ、これは日々の授業を変えていかなければいけないな」と思ったのです。
外国語を学ぶ意味については、これまでも自分なりに考えてきたつもりでした。英語を使えるようになることだけが目的ではないことも考えてきました。
また、外国語を通して人と関わったり、自分とは違う考え方に触れたりすることの意味も、授業をしながら考えてきました。
ただ、それを自分の中でうまく言葉にできていたかというと、そうでもなかったように思います。
本書を読みながら、これまでぼんやりと考えていたことが、少しずつ輪郭を持ちはじめました。
「Nothing」と言われたとき
「My Best Memory」という単元を授業していたときのことです。ある子どもに思い出について尋ねると、「Nothing」と答えました。
こういう答えが返ってくると、教師としては少しドキッとします。
授業では「自分の思い出を英語で伝える」という活動を考えているのですから、「何かあるだろう」と思ってしまいます。
でも、その子にとっては、本当に「Nothing」なのかもしれません。
私はまず、その子とこそっと話してみました。
本当に思い出がないのか。思い出はあるけれど今は思いつかないのか。それとも「My Best Memory」という問いそのものに何か引っかかるものがあるのか。
少し話してみた上で、そのことをクラス全体にも投げかけました。「実は、思い出がない子っている?」というような感じです。
ここで私が確かめたかったのは、指導者が用意した答えに子どもたちを合わせることではありませんでした。
せっかくなら、子どもたちの本当の言葉を聞いてみたい。「Nothing」なら、「Nothing」なりの話をしてみればいい。そう思ったのです。
外国語の授業では、どうしても「この表現を使って話してみよう」「このことについて伝えてみよう」と、ある程度の道筋をつくります。
それは必要なことですし、私自身もそうやって授業をつくってきました。
ただ、子どもの口から出てきた言葉が、教師の想定していたものと少し違ったとき、その言葉を「予定外」として処理するのか。それとも、そこから授業を少し動かしてみるのか。
(できるかどうかは分かりませんが)私は、後者でありたいと思っています。
「Nothing」と言われたときに、授業を止めるのではなく、その言葉を授業の中に置いてみる。
すると、そこから別の子どもの考えが出てきたり、「自分もそうかもしれない」と思う子がいたりします。予定していた活動とは少し違うところに、子どもたちの言葉が広がっていくことがあります。
振り返ってみると、私はこういう瞬間が好きなのだと思います。
予定どおりに進んでいないのに、なぜか授業が面白くなっていく。教師が準備したものではなく、子どもの言葉から次の展開が生まれていく。
そんな授業に出会うと、少しうれしくなります。
授業を「進める」ということ
もちろん、授業には時間があります。学習のねらいもありますし、限られた時間の中で子どもたちに必要なことを学んでもらうためには、効率よく授業を進めることも大切です。
私自身、教師だった頃は、どうすれば無駄なく進められるかを考えていました。
指導主事になってからも、授業を見る中で、時間を大切にしながら子どもたちの学びを成立させようと工夫されている先生方の姿をたくさん見てきました。
だから、効率よく進めることが悪いと言いたいわけではありません。
ただ、「Nothing」と答えた子どもとのやり取りを思い出すと、少し考えてしまいます。
もし、授業を予定どおり進めることを優先するあまり、子どもの言葉を聞く時間をなくしてしまったらどうだろう。
もし、指導者が想定した答えに近づけることを優先して、その子にしかない「Nothing」を、そのまま受け止めることができなかったらどうだろう。
そんなことを思い出したのは、今回の本を読んだからです。
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英語を学ぶことを通じて、世界の見え方に変容をもたらすような経験を学習者に与えることが『できているか』(p.138)
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私の課題意識とそのままつながる記述ではありませんが…
予定していた内容を時間内に終えることも、子どもたちが英語をたくさん使うことも、もちろん大切です。
でも、それだけで外国語を学ぶ意味を語れるのだろうかとも思います。
子どもが「Nothing」と言ったときに、「じゃあ、別の答えを考えよう」と先に進めることもできる。でも、その「Nothing」をきっかけに、少し立ち止まってみることもできる。
その違いは、授業の進度だけを見れば小さなことかもしれません。
でも、子どもにとっては、自分の言葉を受け止めてもらえた経験になるかもしれないし、友達の考えを知るきっかけになるかもしれません。
そう考えると、授業を効率よく進めることと、子どもの言葉を大切にすることは、どちらか一方を選ぶ話ではないのだと思います。
そのバランスを、その時々の子どもたちの姿を見ながら考えていくことが、授業をするということなのかもしれません。
外国語を学ぶ意味をもう一度考える
本書を読みながら、これまで自分の中にあった外国語教育への考えが、少しずつつながっていくような感覚がありました。
英語を使えるようになることは大切です。子どもたちが「伝わった」「分かった」と感じる経験も大切です。
ただ、それだけではない。
外国語を学ぶ中で、自分とは違う考え方に出会ったり、「そんな見方があるのか」と思ったりすることがあります。自分が当たり前だと思っていたことを少し疑ってみることもある。
そうした経験そのものに、外国語を学ぶ意味があるのではないかと思います。
同時に、問いも残りました。
外国語を学ぶ意味を一つの言葉で説明することは、やはり難しい。
子どもによっても違うでしょうし、学ぶ時期によっても違うでしょう。
だからこそ、「外国語を学ぶのは何のため?」という問いに、きれいな答えを用意して終わるのではなく、その問いを持ったまま授業をすることにも意味があるのかもしれません。
もう少し考えたい
指導主事になって、授業を見ることは増えましたが、自分自身が教室に立つ機会は以前より少なくなりました。
それでも今回の本を読んで、自分自身の授業について、もう少し考えてみたくなりました。
「Nothing」と答える子どもがいたとき、私はどうするのか。予定していた活動をそのまま進めるのか、それとも、その言葉をきっかけに少し立ち止まってみるのか。
そんな小さな選択の中にも、外国語を学ぶ意味についての自分の考えが表れるのだと思います。
亘理先生の本を読んで、外国語を学ぶ意味について、すべての答えが見つかったわけではありません。むしろ、考えたいことは増えました。
答えをもらったというより、自分が考え続けなければならない問いを、改めて渡されたような気がしています。
しばらく、この問いを持ったまま、授業を見たり、子どもたちの姿を見たりしながら、自分なりに考えてみようと思います。

羽渕 弘毅(はぶち こうき)
兵庫県西宮市立総合教育センター 指導主事
専門は英語教育学、学習評価、ICT活用。高等学校や小学校での勤務経験を経て、現職。これまで文部科学省指定の英語教育強化地域拠点事業での公開授業や全国での実践・研究発表を行っている。働きながらの大学院生活(関西大学大学院外国語教育学研究科博士課程前期)を終え、「これからの教育の在り方」を探求中。自称、教育界きってのオリックスファン。
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