2025.09.30
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教育書から学ぼう  ~教育の「実践研究」の価値は~(2)

「わたし、研修は苦手で......」。これは、かなり控えめな言い方で、内心は「わたし研修って嫌い!」だったかもしれない。
ー 日常のわたしたちの問題解決につながっているの? ー
そんな思いも、背後にあったのではないだろうか。

なかには豪傑もいて、飲みながら自信満々に言い放った。
「オレは研修はどうでもいい。"ほんもの"の教育やるんだ」
えっ? 研修でやっていることは"にせもの"なの?

小林秀雄は「実行という行為には、常に理論より豊富な何ものかが含まれている」と講演で言っている。この「豊富な何ものか」について、『よい教育研究とはなにか』(ガート・ビースタ著,亘理陽一他訳)の読書会で学んだことをもとに考えたい。

静岡大学大学院教育学研究科特任教授 大村 高弘

科学的な知識と日常の知恵

自分の理解では、理論知とは図書や論文、講演などを通して学んだもの。一方、日常の授業のなかで子どもとのやりとりを通してつかんだものが実践知であり、それは行動によって得られた知恵のこと。こんな区別をしている。でも、そんなに単純でやさしいものではないことが、読書会のおかげでわかった。

「近代」は、科学が一気に進展した時代だ。
ビースタは、この「近代文化」が「日常的な経験の世界の現実と、人間の生活の非認知的な次元の現実を軽んじていくことにつながっている」と憂慮している。
そして教育哲学者・デューイの言葉を引用し「人間の重大な関心事からとても遠いところに科学は存在しているという信念を作り出してしまう」ことを避けたいと願っている。本のタイトルのとおり「よい教育研究とはなにか」を究明するために、ビースタは「実践としての教育」の意味を深めようとしている。

実践と制作

では教育の実践とは何なのか? 
 ビースタは、アリストテレスの述べた実践(プラクシス)と制作(ポイエーシス)の区別を取り上げている。自分はまずそこに引きつけられた。

教育を通して子どもを「制作する」っておかしいのでは? 制作という言葉は、人間を対象にして使うものではないだろう。制作は、その始まりが制作者の側にあるとされる。確かに制作物は後からできるものだ。また、制作に必要な知識は「どのようにすればできるか」の答えとなる手段で「技術」(テクネ―)と呼ばれる。

一方、教育の実践は、ものの生産ではない。最初に子どもがいて「人として善く生きていく」ことを実現するために教育はある。だから実践は、ハウツーや手段を内に含みながらも、前面に技術を出すべきものではないだろう。

かつて教育技術を法則化する運動が、多くの実践家の注目を集めた。
先輩教師たちの努力の結果として、技術を財産として蓄積することは重要だと思う。だが技術が独り歩きし、因果関係ばかりが重視され、一人ひとりの子どもが前面に出てこないとしたら、その研究のあり方に自分は賛同できない。

普遍的か可変的か

自分にとって、もう一つの学びのキーワードは「エピステーメー」(普遍的な知識)だった。これはプラトンのイデア論の延長にあるもの。『二コマコス倫理学』では、「必然的なものごと」「永遠的なものごと」「それ以外の仕方においてあることのできないもの」とされる。よって「エピステーメーは論証をこととする」とビースタは言う。確かに科学も哲学もそういう性質をもっている。

一方で教育の実践はこれと異なり、根拠のある結論を出すこと自体への求めは低い。
教師は「具体的な状況における行為の決定」をその都度行っている。目の前にいる子どもに対して「いま・ここ」での判断が大切にされる。それは「何をめざすか」との熟慮に基づき、目的・目標と一体になったものである。

よって教育は普遍的な領域ではなく可変的な領域とされる。不変と可変、この言葉も理論と実践の違いを、分かりやすくしてくれる。

実践を研究する目的は?

ビースタはエビデンスに基づく教育実践を望ましいものと思ってはいない。
たとえば農学や薬学などの分野ではそれは有効かもしれない。自然界の法則を説明するにあたっては「原因と結果の間の必然的なつながりを特定すること」が求められる。

教育実践は、人間を対象とした営みであって、その目的は因果関係を説明することではないと言う。「教師がこうすれば子どもはこうなる」との方法や技術をメインにした情報提供もあっていいとは思う。教師は多くの引き出しをもっていることが重要だからだ。
しかし、ビースタは実践を研究する場合は、行動の理由を「理解」しようとすることこそ重要と言う。子どもと教師との相互作用は「物理的な作用・反作用ではなく、コミュニケーションと解釈によるもの」だからだ。

布を織るような仕事

先日、ある学校の研究会で、本書の第1訳者の亘理陽一先生(中京大学教授)のご講話を聞く機会があった。お話のなかで、教育実践とは「一本一本の糸を紡いでいく、布を織るような仕事」との言葉が心に深く残った。
一人ひとりの子どもに歴史があり、織られた布にはその教師の個性が表れる。「原因と結果は?」と考えるよりも、フィードフォワード(前に進む)という動きこそ重要だと感じた。
そして、この「つれづれ日誌」に書かれる実践の記述は、子どもの動機や経験、学びなどを理解し、「子どもはなぜそのように行動するか」を解釈する実践研究のための貴重なテキストであると思う。

大村 高弘(おおむら たかひろ)

静岡大学大学院教育学研究科特任教授


教員不足の問題がいろんな機会に取り上げられています。
でも教職は実に愉しくやり甲斐ある仕事ではないでしょうか。
その魅力を読者の皆さんといっしょに考えていきたいと思います。

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