2021.09.29
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ふるさとの震災について語りつぐ責任~社会よし~

東日本大震災で大きな被害を受けた東北地方。私は福島で生まれ、宮城で育ちました。
東日本大震災から10年が経ち、震災後に生まれた子どもたちも増えてきました。私たちはあの時の出来事をどう伝えていけばよいのでしょうか。

浦安市立美浜北小学校 教諭 齋藤 大樹

震災当時の記憶

2011年3月11日、私は浦安で勤務しており、地震後に起きた液状化現象への対応に追われていました。校庭の地面が割れ、次々に土砂や水が噴き出し、校庭にあったプレハブ校舎は傾いていました。校庭で体育をしていた子どもたちを助けたり、泣いている子どもたちに声をかけたりすることで必死だったことを覚えています。

発電機を動かしてプールの水をろ過していた時、保護者の方から宮城県に津波が近づいていることを、教えてもらいました。慌てて職員室で流していたテレビのニュース番組を見に行くと、「どこかで見た風景だな」と感じました。それは、ヘリコプターからの映像で、大きな津波が陸地へと近づいている様子でした。初めは海だけでしたので気が付きませんでしたが、徐々に陸に近づくにつれて津波の大きさと異様さに恐怖しました。そして陸地の様子を見た時、絶句しました。それは、私の故郷である宮城県名取市周辺だったのです。

見知った建物が次々と津波の被害を受けていく映像から、家族や友人たちは大丈夫なのだろうかと不安になりました。何かしたいけれども何もできない無力感。本当に自然の恐ろしさを感じました。

ようやく帰れた故郷の姿

かつての実家周辺(2011年4月30日撮影)

私の家族は内陸部にいたので無事でした。ただ、小学校や中学校時代の友人らの状況は壮絶でした。生き抜いた友人たちが3日間屋根の上で過ごしたという話などを聞くと、テレビやインターネットで聞いているのとは異なり、現実の話だったのだと改めて感じました。今振り返ると、テレビで流れていた故郷の姿の衝撃に感覚が麻痺してしまい、現実と感じられなかったのかもしれません。一刻も早く帰りたい気持ちが募りましたが、道路状況も悪い中、宿泊地などが確保できない状況で行くことは被災地の方に迷惑がかかると考え、我慢していました。

一カ月半が経ち、東北新幹線が復旧した際に宮城県へと帰郷しました。かなりの時間が経過しているにも関わらず、瓦礫は道路に散乱し、沢山の車が乗り捨てられていました。また、船が海から何キロも離れている場所に乗り上げている姿に驚き、改めて津波の威力を実感しました。陸地なのに、そこら中から海のにおいがしました。安否情報が集まる市役所など、父と共にお世話になった方の情報を集めて移動を続ける中で、悲しい現実を多く目の当たりにしました。

本来、4月末は田植えの準備がされている時期です。農家の方の「おれは生まれて初めてスーパーで米を買ったよ」という姿に、涙が止まりませんでした。地震や津波で亡くなった方ばかりではありません。仕事や生きる希望を取り上げられた方々の悔しさは如何ほどだったでしょうか。

あれから10年、私たちの使命とは

あれから10年が経ちました。被災した方々にとって、現在も様々な思いを抱えていらっしゃると思います。ただ、関東に住む私にとってはあの時の出来事は少しずつですが過去のものとなってしまっています。本当に申し訳ないと感じています。ましてや生まれてすらいなかった子どもたち、特に被災地以外の子にとってはどこか遠い話に聞こえるかもしれません。

私は、避難訓練をする度に、子どもたちに何を残していけばいいのか自問自答しています。実際に見聞きした前述のような悲惨な話を伝えるべきなのか、被災地に生きる方々の姿を伝えるべきなのかということを。子どもたちの心に残り、未来を向けるような防災教育はどうしたらよいのでしょう。

今年は東日本大震災から10年目になります。3月11日にあの時の様子を伝えるのも良いでしょうが、そうではなく、年間を通して何かを伝えていくべきだろうと考えています。悲惨さや苦しみを伝えるというのも大切でしょうが、今年はこのコロナ禍という時代にも活かせるような、明日に向かって「しなやかに生きる」ことを伝えていきたいと感じました。そんな時、宮城で働く友人から防災に関する副読本があると伺いました。

みやぎ防災教育副読本『未来への絆』

記事を読まれている宮城県の方はご存知だと思いますが、宮城県の教育現場で活用されている副読本に「みやぎ防災教育副読本」というものがあります。宮城県の公式ホームページでも広く公開されており、小学生から高校生、園児も含めて様々な発達段階ごとに分かりやすくまとめられています。

『未来への絆(きずな)』と名付けられたこの本には、宮城県教育委員会からこんなメッセージが書かれていました。「この震災のことを絶対に忘れることなく,後世に語り継ぎ,今後起こりうる災害と向き合い,未来へつないでいかなくてはなりません。」

また、各自治体のHPには当時の小学校現場でどのように震災と向き合っていたかという記録が残されています。私も母校の記録を読んだとき、実際の現場ではこのようなことが起きていたのかと改めて気づかされました。安全主任はもちろんのこと、ぜひ多くの教職員の方々にこうした現場の様子を知ってほしいと思います。

まず自分にできることを一歩ずつ

本来であればこういった記事は、被災地で長年防災教育に尽力された方が書くべき内容かもしれません。「故郷を離れた人間が防災教育について語る資格などないのではないか」とも感じていました。それでも、このような私でも防災教育の普及に何かしら協力できればと思い、記事にしました。今回の記事は今期のライターとしての締めくくりとなる回ですので、僭越ながら私個人の震災の記憶をお話させて頂きました。

自分の身の周りのできることから一歩ずつ防災を進め、未来へと希望をつないでいくことが大切なのではないかと感じます。過去を振り返りながらリスクに備えて、現在を生きる。そしてそれを未来へとつないでいくという『未来への絆』が伝えてくれたメッセージ。私も一教師のはしくれとして、身近な方々へつないでいく私の役目を果たしていきます。それぞれの教師たちが身近なところから防災教育を進め、それが大きな絆となることを願っています。

東日本大震災で被害にあわれた皆様にお見舞いを申し上げるとともに、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

齋藤 大樹(さいとう ひろき)

浦安市立美浜北小学校 教諭


一人一台PC時代に対応するべくプログラミング教育を進めており、市内向けのプログラミング教育推進委員を務めていました。
現在は小規模校において単学級の担任をしており、小規模校だからこそできる実践を積み重ねています。

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