2018.11.29
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他者理解につながる役割取得能力発達を支援する~社会科の授業を通して~

大学院の講義で道徳性の発達について学びました。その際に「役割取得能力」という言葉に触れました。「役割取得能力」を個人的には「他者と自分の心や思考が違うということを理解し、推測する力」とざっくり理解しています。自分と他者との違いや心というフレーズが出てくると道徳(道徳科)で扱う内容のように思えます。しかしながらこれまでの自身の教育実践を振り返ってみると、社会科の授業において「役割取得能力」の発達を促進するような授業をいくつかしてきたのではないかと感じています。もちろん実践した当時はそんなことを考えていませんので、あくまで「結果として」ではありますが。今回はその「結果として」役割取得能力発達につながったであろう社会科の実践を書き綴ってみたいと思います。最後までお読みいただけると幸いです。

佛教大学大学院博士後期課程1年 篠田 裕文

小学校高学年社会科における役割演技学習で役割取得能力を!!

 役割取得能力は向社会的行動が生じる要因の一つ,共感性に関わるとされています。「人間の考えや気持ち」について小学校の学習で扱うとするならばおそらく道徳の学習を思い浮かべる人が多いでしょう。道徳性の要となる特別な教科道徳,という位置づけから考えると道徳科の学習を中心に役割取得能力を高めていくというのは自然です。しかしながらこれまでの15年間の教育実践を振り返ると,子どもたちの役割取得能力発達が支援できたなと私が感じる教科は道徳ではなく,社会科です。社会科はその目標に「主体的に生きる平和で民主的な国家及び社会の形成者に必要な公民としての資質・能力の基礎を次のとおり育成することを目指す」(現行)とあるように子どもたちが一人の人間として社会に適応していく能力を育てることを教科の目標としています。3年生~6年生までの内容を見ていると,そこには一貫して「人」の存在が見られます。地域社会で,歴史の中において,人がどのような状況下でどのように考え,どのように思い,どのように行動していったのか,それらを追体験することが可能な教科,それが社会科だと私は考えています。自身の社会科実践を2本取り上げ,それがどのように役割取得能力発達とかかわるのか考えてみたいと思います。

民主主義の発展を考える中で

 最初に取り上げたいのは民主主義の発展を学習する単元です。江戸から明治へと変わり,しばらくたつと国会開設を求めて日本各地で自由民権運動がおこります。演説者を警官が取り押さえ,その警官に向かって聴衆がモノを投げつけている様子を描いた絵が教科書に掲載されています。その様子を教室で再現することにしました。子どもたちは演説をするために国会開設の必要性や政府への不満を調べます。聴衆役になった子は当時の庶民のおかれた生活の状況を調べます。警官役になった子どもは当時の明治政府の立場を調べます。その上でどのような演説が展開されたのか教科書や資料集に書かれていないセリフを考え,そして子どもたちが演じます。実際の授業場面では演説者役の子どもが「みなさんいいですか!!」の言葉から聴衆に語りかけ,それに呼応するように聴衆役の子どもたちが「いいぞ!!」「そうだそうだ!!」と叫びます。不満や批判の高まりを感じたところで警官役が演説者を壇上から引きずり降ろそうと演説者の身体に触れると,聴衆が「今いいところだ!!」「政府の〇〇は引っ込んでいろ」と警官に政府に対する批判を展開し演説者も制止を振り切り話そうとします。

 詳細を述べ始めると紙面が足りなくなりますので授業の具体はここらで止めますが,この実践は自己内省的な役割取得,相互的な役割取得を体験させる機会となっていたように思います。警官役,聴衆役,演説者役になった子どもたちそれぞれが,小学校6年生としての自分と明治期における自由民権運動にかかわる人たちとの視点を分化しているように見えます。自分が与えられた役割に沿って当時の人々の思考や感情,セリフを内省し言動によって表現しています。3つの役割の相互作用によってストーリーが進んでいるため,警官役,聴衆役,演説者役が相手の思考,感情などから相互に影響を受け自分の言動を変化させていっています。相互交渉をある子は意識的に,ある子は無意識的にしていたことでしょう。このように考えると,この授業は役割取得を子どもたちに体験させた学習機会といえるのではないでしょうか。

平和へと歩みだす日本を考える中で

 戦後日本がどのように復興していくか,その様子を「(東京五輪1964の)聖火ランナーの実況アナウンスをつくろう」という活動を通して学習しました。学習の最後には実際のVTRに合わせてアナウンスをする機会を設定しました。その際,子どもが書いた原稿が次のような文章です。

 最終ランナーは坂井義則。1945年8月6日生まれ。8月6日広島に原爆が落とされました。あの大きな音と同時に街を一瞬にして吹き飛ばしました。この日を忘れることはないでしょう。(中略)あのマイナスから始まった国が今プラスへと上っていきます。わずか19年でオリンピックへ進みました。さあ,いよいよ聖火がともります。今までの苦しい思い,悲しい思いを燃え消しましょう。この火はいつまでも消えることはなく,私たちの心の中で燃え続けることでしょう。この国を希望であふれさせましょう!!(かなり省略しています。この実践は7回目くらいに詳細に書いてみようとおもっています。)

 31人全員が差はあれ上記のような原稿を作成しました。聖火ランナーが階段を駆け上がり聖火をともすまでの十数秒間,子どもたちの興奮はピークに達し,1964年のスタジアムに立っているかのようでした。

 この実践も自己内省的な役割取得,相互的な役割取得を体験させる機会を子どもたちに提供したように思います。「この日を忘れることはないでしょう」という言葉は今の子どもたちの視点ではなく,戦争を経験した人,即ち当時の国民の視点に立っていることがわかります。当時の国民から戦争を見たらどのような感情になるか,自分が当時の国民だったらどのように思考しどのような感情をもつか,そのように自己の思考や感情を内省しています。後半に書かれている「今までの苦しい思い,悲しい思いを…」「この国を希望であふれさせましょう」も同様です。当時の国民の立場から考えなければ出てこない言葉です。子どもたちは当時の国民の立場だけで作成したのではありません。資料から当時の日本の様子を調べ,そこから思いをめぐらせたのは今の子どもたちの視点です。焼け野原になった日本がわずか19年で国際社会に誇れるオリンピックを開催できたことに子どもたちなりに驚きや賞賛の意を感じている様子が伺えます。当時の国民にとってのオリンピックの存在と,自分たちの考えとの共通点や相違点を十分に吟味した上に実況アナウンス原稿は出来上がっているように私には思えます。両者の視点を考慮し同時的・相互的に関連付けているという点で相互的な役割取得の学習機会になっていたと考えられます。

おわりに

 以上実践した社会科学習と役割取得発達とのかかわりについて考えてみました。相手の考えや気持ちをおしはかる機会は何も道徳科だけではありません。今回考察したように社会科においても十分可能です。ピアジェは発達要因として遺伝,物理的経験,社会的学習に加え均衡化を挙げました。均衡化は時間を必要とするし子ども自らが自らの方法で融合するものであるともいわれています。その観点に立てば役割取得能力も子どもたち一人一人が時間をかけて発達させていくものです。だからこそ様々な機会をとらえて子どもたちが役割取得を経験できる場を提供し,その発達,その均衡化の支援ができたらなと思います。「人」を中心に学習を展開する社会科は,役割演技学習を想定しやすいものです。どのような学習が子どもたちの発達を支援するかこれかも追究していきたいと考えています。最後までお読みいただきありがとうございました。

篠田 裕文(しのだ ひろふみ)

佛教大学大学院博士後期課程1年
修士課程を修了し博士課程に進学しました。修士時代に学んだこと、学校現場で実践したことを書き綴りたいと思います。

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