2018.10.04
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省察的実践家であれ

「状況と対話」し,「行為の中の省察」を通じて自ら学び,解決策を身につけ発達していく専門家を省察的実践家と藤沼(2010)は述べています。省察的実践家としての教師は大学院でもクローズアップされているトピックです。初回の掲載にあたり教師が省察的実践家である理由を哲学的に考えてみます。

佛教大学大学院博士後期課程1年 篠田 裕文

せっかくの機会ですから

小学校教員として14年間学級担任を続けてきました。担任として授業をすること,学級経営をすること,保護者の方々・同僚と共に活動することはとても楽しく充実した時間を過ごしていました。
しかし30歳を過ぎたあたりから様々な思いが頭をめぐり37歳にして再び「学習者」としての進路を選択しました。心理・脳科学・発達科学・特別支援教育等々様々な研究分野からの学びは実に刺激的で多くの知見を得ることができたとともに,14年間の自身の実践を振り返る絶好のチャンスとなっています。
このような刺激的な情報に囲まれる日々において,学びの場.comでの原稿執筆の機会をいただきました。せっかくの機会,学んだことだけではなく学んだことから自身の実践をどう振り返ることができるのか,自身の実践をどのような切り口から見直すことができるのか,このような視点から教育つれづれ日誌を書き綴ってみようと考えています。今回から10回,お付き合いいただけると幸いです。

認識が権力と結びつく

啓蒙思想

いきなり教育とは関係なさそうな言葉を登場させました。ちょっぴり物騒な言葉です。これは教育哲学の講義の中で紹介された言葉です。この言葉が出てきたのは「啓蒙の弁証法」について議論がされている最中でした。「啓蒙」とはデジタル大辞林によると「人々に正しい知識を与え,合理的な考え方をするように教え導くこと。」と説明されています。啓蒙思想家としてホッブスやルソー,モンテスキューらが登場し人間の理性が説かれたり平等主義につながる思想が生まれたりしました。世界史のどこかで出てきた,そのような記憶が蘇ってくる方もいらっしゃるかもしれません。当時、これらの思想は人間の幸福につながるという確信で一貫していました。

啓蒙の弁証法

ですが後に,啓蒙思想のうちには,文明化へと向かう志向性と野蛮へと転落する傾向性が含まれているという考えがホルクハイマーとアドルノによって生まれました。ナチス・ドイツからアメリカに亡命した彼らによって発表された、この研究は 「啓蒙の弁証法」と呼ばれています。啓蒙が野蛮な行為へと転落すると,認識が権力と結びつくと紹介されました。
権力=操作して管理したい
を指します(ここでは)。操作して管理したいという志向は「支配―従属」の関係を生みだします。科学技術を推奨し自由や平等を目指すはずの啓蒙が,人間の理性を開放し理性によって人間を幸福にしようとし啓蒙がかえって支配する,されるの構造を生み出してしまった。そのような啓蒙に対する批判がなされました。

学校現場におきかえてみると

これを学校現場に置き換えてみると,教師にとって認識すべき対象に子どもがいます。教育システムや教育技術等が発達すれば発達するほど教師の子どもへの認識が深まり,その認識をもとに教師は子どもたちと接しようとします。子どもを認識するための教育が発達することは子どもの幸福につながるように見えます。しかし啓蒙の弁証法的に考えると,子どもが社会にとって国家にとって教師にとっていいように操作されることを意味するのかもしれません。
「子どものため」や「子どもたちが自分たちで活動できるように」という言葉は,子ども達の自主性を高め,抑圧や不自由とは反対の教育のように思われます。しかしそれもこの「認識が権力と結びつく」という考えを適用すると,そのような自主性や子どもたち自身の手による活動を良しとする社会や教師,国家のいいように操作し管理している状態なのかもしれません。

省察的であれ

啓蒙の弁証法ですが,これを克服するカギは「反省」にあるとも2人は述べています。子ども達を操作しようと思って教育活動を展開する教師は一人もいないはずです。しかし私自身を振り返ると「子どもたちを一様な方向に向けてしまっているのでは。」「私の考えを押し付けているだけでは」と,結果として子どもたちを操作してしまったのではないかという思いがこみ上げてきます。「子どもに対する畏れ」を忘れるな。大学時代だったか,新採のころだったか,いつかは忘れてしまいましたが心に残っている言葉です。教育である以上,何かを子どもたちに強いている,その強いることへの畏れを忘れてはならないと思います。
認識が権力と結びつく,この恐れを克服するために反省的である必要性,即ち藤沼(2010)が言う「省察的実践家として状況と対話し,行為の中の省察を通じて自ら学び,解決策を身につけ発達していく必然性」が生まれてきます。

おわりに

大学院の講義で教育哲学に触れ,「啓蒙の弁証法」という言葉に出会うことでなぜ自身の実践を振り返らねばならないのか,なぜ省察的実践家としての姿が教師に求められているのか。これまでの担任としての14年間では思いもしなかった側面からの知見を得ることができました。
これからの9回は自身の実践をもとにその内容や振り返りを書き綴っていく予定です。反省する,振り返ることの意味を考えつつせっかくいただいた機会を楽しみたいと考えています。
ちょっと堅苦しい話になってしまいました。最後までお読みくださりありがとうございました。

引用文献
  • 藤沼 康樹(2010),省察的実践家(Reflective Practitioner)とは何か―総論,日本プライマリ・ケア連合学会誌,33,2, 215-217

篠田 裕文(しのだ ひろふみ)

佛教大学大学院博士後期課程1年
修士課程を修了し博士課程に進学しました。修士時代に学んだこと、学校現場で実践したことを書き綴りたいと思います。

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