みなさん、こんにちは。
今回は日本映画を代表する小津安二郎監督(1903~1963)の作品と、
アクティブラーニングとの意外な接点、つながりについて考えてみたいと思います。
1.小津の重箱
小津安二郎の作品を見たことがある方は、
代表作として「東京物語」「晩春」「麦秋」などの戦後作品をあげられるかもしれません。
戦前のサイレントムービーの傑作である「生まれてはみたけれど」や「一人息子」、「父ありき」なども有名です。
その作品群のほとんどに共通するのが、
小津映画独自のローアングル、ローポジションのキャメラワークです。カメラをうんと低い位置に構えて、
人物を仰ぎ見るように下から撮影する手法が特徴的です。
加えて、小津作品には移動撮影がほとんどありません。
常に固定した位置でキャメラを構え、
小津監督が指定した比率のフレームの中だけで人物その他が動いていきます。
また、シナリオそのものが単調で、家族や人間生活の機微を題材とし、
ごく普通の家庭や社会にみられる、ありきたりの日常を綴っていきます。
したがって、同時代の日本映画でも、黒澤明の作品にみられるような躍動感はなく、
画面としては、淡々と推移していく作品が多いことが特徴といえるでしょう。
初めて小津作品を観る人には、いわばアクティブとはほど遠い、
ごく静かで平凡な、ちょっと退屈そうな作品だと思われそうです。
ところが、2012年に『Sight&Sound』誌に発表された、
英国映画協会の「映画監督が選ぶ、映画史上最高の作品ベストテン」で、
小津監督の「東京物語」(1953)が、なんと第1位に選ばれました。
他の作品も含めて、世界中の映画監督が影響を受け、
国内外に熱烈なファンが存在し、時代を超えて愛される、数少ない日本人監督として知られています。
なぜ、一見単調な作品に見える小津映画が、広く受け入れられるのでしょうか?
新藤兼人氏は、その著書『シナリオ人生』(岩波新書)の中で、
親交のあった小津安二郎の作品の特徴を、「小津の重箱」と表現しています。
小津作品には、細かい人物描写やストーリー展開はもとより、湯呑みや皿の一つずつまで、
画面の映るものすべてが小津の美学にあわせた、整然とした、完ぺきな配置をみることができます。
しかし、変化の少ない画面のゆえに、
ほんのちょっとのズレや歪みがひとたび現れると、観る者の心の中に大きな「揺らぎ」が起こります。
その「揺らぎ」は直接的に表現されたどぎつい場面や、人間の喜怒哀楽の表情よりも、
はるかに大きな波動を伴って、心の中に深く長く続くのです。
なぜ、こうしたことが起こるのでしょう?
2.「東京物語」の衝撃
代表作「東京物語」について考えてみます。
ストーリーは、広島県の尾道に住む老夫婦(笠智衆・東山千恵子)が東京に住む子どもたちに招かれて上京するのですが、日々の生活に追われる長男(山村聡)や長女(杉村春子)は、数日間の滞在にもかかわらず親をもてあまし、あげくに戦死した次男の嫁(原節子)に世話をおしつけてしまいます。
老夫婦が尾道に帰った直後、長男の家に突然「ハハ、キトク」の電報が来ます。大阪にいる三男(大坂志郎)も含めて、子どもたちは急遽尾道にかけつけますが、昏睡状態のまま母親は亡くなってしまいます。葬儀ののち、仕事が気にかかる子どもたちは、父を残して足早にひきあげます。残った次男の嫁に、父親は妻の形見の時計を与え、再婚を勧めて東京に帰すという物語です。
ここで注目したいのは、ストーリーの進行とともに、画面の中に施された細かな工夫です。
例えば、老夫婦が上京する直前に、尾道の家で旅支度をするシーンがあります。
空気枕がないとかあるとか、たわいもない会話をしながら、
老夫婦は同じ方向を向いて座り、持ち物をバッグに詰めていきます。
そこへ窓の外を隣の奥さんが通りかかり「お楽しみですなあ」と声をかけると、
父親の口から「今のうちに行っとこう、思いまして」と、上京への期待感があふれだす会話のシーンがあります。
映画の最終盤に、実はこれとまったく同じセット、
同じキャメラアングル、同じ人物配置で撮影されたシーンがあります。
母親の葬儀のあと、一人残された父親が同じ向きで座り、することもなしにうちわを仰いでいます。
そこへ隣の奥さんが通りかかり「おさみしゅうなりましたなあ」と声をかけます。
父親は「こんなことなら、もっと優しゅうしといてやればよかったですわい」と答えます。
先ほどの画面と違う点は1つだけ。
それは、母親の存在がないということです。
観客は、老夫婦が二人で暮らしていた生活を知っていますから、画面から感じる喪失感は身につまされるものがあります。
つまり、同じ家のセット、同じキャメラアングル、同じ人物配置であるにもかかわらず、
ひとり母親だけがいないという、ほんの小さなズレがあることで、観客の心の中に大きな「揺らぎ」を起こすのです。
そして、そこからこの作品のテーマである、
親子とは何か、夫婦とは何か、人生とは何かに観客は否応なく思いを巡らします。
吉田喜重氏は、著書『小津安二郎の反映画』の中で、
小津監督の表現の特徴は、「反復とズレ」であること。
例えば、人物であれば同じような会話や動作を繰り返しつつ、画面構成としては同じアングルや場面を繰り返しつつ、
僅かなズレをもたらすことによって、観客の心に大きな動揺を引き起こすこと、に注目しました。
また、映画「東京物語」について、
「小津監督は親子を決して甘いものとは見ていない。この映画に悪い人は一人も出てこないが、
親子とはいかに残酷なものであるかを、淡々と描いているにすぎない」と語っています。
3.アクティブラーニングの効果とは
小津作品の特徴は、一見単純なストーリー、単純な画面構成のくりかえしの中に、
わずかなズレを作って観客の心に「揺らぎ」をつくり出し、
作品のテーマにいざなう優れた仕掛けにあると言ってよいかもしれません。
それは見事に計算されたシナリオと、綿密な画面構成によるところが大であると思います。
2時間30分の映画と、50分の授業とでは、時間の幅こそ違いますが、
綿密なデザインが必要であることはたいへん似ていると思えます。
私がアクティブラーニング型の授業に切り替えて、よかったと思うことに、
(1)他者との協働の学びの中に、学習者どおしがズレを感じ、他者と自分とをメタ認知することで、
より深い学びにつながる
(2)授業の最初に与える問いの中に、教科書や単元に沿った問いとは少しズレた問いをあわせることで、
より深い学びにつながる
の2点を挙げることができます。
(1)は、これまでも多くの研究者、実践者から言われてきたことですので、みなさんもよくご存じでしょう。
(2)は、私の場合、メインクエスチョン(MQ)とファンダメンタルクエスチョン(FQ)の2つを分けて発問しています。
例えば、高校日本史で「鎌倉仏教」を扱う場合、MQは「なぜ鎌倉仏教は浸透したのか」であり、
これは教科書や資料集、要したプリントでなんとか答えられるわけです。
しかし、FQの「なぜ人間は宗教を必要とするのか(人間にとって宗教とは何か)」は、
むしろ倫理的な問いであり、また現代的な問いでもあります。
いわば教科書の内容からは若干ズレた問いです。そして明確な答えのないオープンクエスチョンでもあります。
私はこの授業の場合、FQへいざなう仕掛けとして、
(a)同時代の戦乱の絵図と、
(b)現代の戦争の犠牲者の写真、
を重ね合わせて提示しました。
そうすることで生徒たちは、
平安末から鎌倉にかけての戦乱が、遠い昔の物語の世界ではなく、現代的な問題であることを認識し、
医学など科学的な知識や態度のなかった時代にとって、宗教がどのような役割を果たしたのか考えるきっかけとなり、
リフレクションを兼ねたまとめを書くことで、学びが深められたと思っています。
アクティブラーニング型の授業をデザインする(しかけをつくる)ときに、
単純な構造の中にも、わずかなズレをつくり、
これを学習者の「揺らぎ」につなげることで学びを深く、しかも永続的にすることができるのではないか。
小津さんの映画作りの中に学ぶべきヒントが、たくさんあるように感じました。
みなさまの中で、まだ小津作品をご存じない方は一度ご視聴のうえ、心の中に湧き起こる数多くの「揺らぎ」と、
永続的な問いへの反芻を、ぜひ体験していただくことをお勧めします。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
参考文献
- 新藤兼人『シナリオ人生』(岩波新書)2004.7
- 吉田喜重『小津安二郎の反映画』(岩波書店)2011.6
前川 修一(まえかわ しゅういち)
明光学園中・高等学校 進路指導部長
インタラクティブな学びの場がどうしたら実現できるか、有効かを、日本史・中学公民のAL授業や進路指導を通じ考えています。平成28年度日本私学教育研究所委託研究員。
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