現場の戸惑いを学びに変える歴史総合と日本史探究の授業デザイン
学習指導要領が示す深い学びの実現に向け、教育現場は変化の時を迎えています。特に歴史教育では、膨大な知識を網羅的に教える従来の手法に限界や葛藤が見え始めています。
本稿では、近年の中教審の議論や、大学入試共通テストなどの傾向なども背景に、教員が直面する悩みや戸惑いを乗り越え、生徒の主体的な学びをいかにデザインしていくか、そのヒントを探ります。
知識を伝える専門家から、生徒と共に探究する伴走者へ。現場の試行錯誤から見えてきた、新たな学びの可能性を論じます。
花園中学高等学校 社会科教諭 伏木 陽介
中教審の論点整理から探る歴史教育の変化と教員が直面する戸惑い

日本史を軸に授業観について考える
みなさんの学校の職員室では、今、どのような会話が交わされているでしょうか。
令和7年9月、次期学習指導要領に向けた「論点整理(素案)」(中央教育審議会 教育課程企画特別部会)が公表されました。そこには、深い学びの実装、多様性の包摂、実現可能性の確保という三つの方向性が示され、教育改革を形だけに終わらせないという方向性が示されています。
しかし、この指針が歴史総合や日本史探究という授業の現場に届いたとき、私たち教員の中から自然に出てくる発言の中には、「本当にやりきれるのか」という率直な不安が混じったものも存在します。
「決められた授業時数で、あの膨大な通史を網羅的に教えきれるのか」「探究的な学びを行うことで、日本史を現代まで教えきることが不可能になるのではないか」「生徒から次々と出てくる問いに対応していては、授業進度と教材研究が追いつかず、実務との両立はますます困難になるのではないか」――。
こうした現場の戸惑いは、理想と現実の間にある深いギャップ、そして前提となる認識の立ち位置の違いから生まれているのだと感じます。
今回は、この不安をあえて出発点にして、私たち歴史教員がどのように知識を伝える人から学びをデザインする人へと変わっていけばよいのか、そのヒントを共に探ってみたいと思います。
教科書を教えきる重荷を下ろし伴走者へ変わるマインドセット
「網羅」という重荷を下ろす
現場の不安の根底には、「教員とはこうあるべきだ」という、自分たち自身が学習者としても含め、長年大切にしてきた責任感、基本的な観念があるのかもしれません。まずはそのさまざまな思いを、少しずつ解きほぐすことから始めたいと考えます。
(1)教科書を「最後まで教えきる」という観念からの解放
通史(学習単元)を全てことごとく取り扱わなければ、生徒は歴史を理解できず、入試にも対応できないという思い。それは多くの教員において支配的な感覚です。現に私も、高校時代は網羅的に教わっていました。そのような場面もまた、多く見受けてきました。
また、大学入試という出口を考えると、教員としても教えきったという事実、生徒も教わったという認識が不可欠なように思えます。しかし、中教審の素案などからは「教科書『を』教える授業からの脱却」の姿勢をうかがうことができます。
これは、単に情報を網羅してそれを伝授すること自体を目的とした学びから卒業しよう、というメッセージだと感じています。
実際に、よく巷で耳にする言葉には「学校の歴史は面白くなかった」「ずっと先生が話していた」という印象が未だに存在します。また、卒業生から「受験当時は覚えていたが、今はもう忘れてしまった」という声を聞くこともあります。
こうした出口で消えてしまう知識・理解に対し、私自身、強い課題感と葛藤を抱いてきました。一方で、異なる卒業生からは、「受験知識は忘れたが、あの問いは覚えている」という声を聞くこともあります。
歴史理解が自分の仮説と異なっていること、今までの理解と違う認識を得られた瞬間のことは今でも覚えています、と振り返る卒業生もいます。これは網羅的な暗記の限界を示すと同時に、主体的な学びの可能性、学びの担い手自身となることの大切さを物語っているように思います。
これらの状況から、知識を網羅的に平坦に教え込むという姿勢ではなく、歴史を貫く中核的な概念を軸に、生徒自身が学びを組み立て直せる授業へ。その方向性に可能性を感じています。
例えば近代化やグローバル化、大衆化、あるいは日本史を東西で比較する視点や因果関係の多様性を生徒自らが構築する「歴史的事象の捉え方」といった軸をもとに、教える内容を精選する。
これはすべてを教えることから、何を学ばせるかを選ぶ(生徒に選ばせるように促す)という、よりクリエイティブな役割への転換でもあります。
加えて言えば、中核的な概念を手に入れた生徒たちが、授業で扱うことのなかった分野、あるいは教科書に掲載されていない国や地域、人物に対しても興味を持ち自分で調べたい、という意識を獲得できていれば、結果的に網羅性を獲得した学習者となると期待しています。
(2)「正解を知る専門家」から「伴走者」へ
また、探究的な授業で多くの先生方が不安に思うことの一つに、生徒から投げかけられる予想外の問いがあります。これにすべて即座に答えようとすれば、教材研究の負担は無限に増えてしまいます。
ここで必要なのは、教員はすべての答えを持っていなければならないという思い込みを、いったん自ら手放してみることです。中教審の素案が掲げる「正解主義からの脱却」は、教員自身にも向けられています。
教員の役割は、唯一の正解を教える先行者ではなく、生徒と共に問い、悩みながら、対話を通じて納得できる解を共に探していく伴走者へと変わっていく必要があるのだと感じています。
歴史的事実をすべて把握しきった教員など存在しません。その立場に立つからこそ、生徒から生まれる問いを、探究的な手法で共に探索していく姿勢が求められるのではないでしょうか。探究的な授業というと、さまざまな教材を収集し、あらかじめ多大な教材研究を行い、想定通りに、探究的に授業を進行させる。このような理解もあるかもしれません。
教材研究の重要性や近年の研究・入試の動向に対するアンテナを張り続けることは大切です。しかし一方で、探究的な授業態度とは、日々の授業における姿勢の持ちようでもあります。生徒の持つ疑問や仮説に共に向き合い、授業に余白を持って取り組むマインドセットこそが、何よりその前提として必要だと考えています。
デジタルと現物資料で歴史のつながりを可視化する授業デザイン
「一本道の歴史」を「つながり」の学びへ

「現物資料」を活用し、生徒の探究心を涵養する
考え方が変われば、教室の景色も変わります。古代から現代へ一本道で進むルーティンのような授業を、もっと立体的で、参加する生徒によって変化する授業の形へと作り変えていくべきだと思います。
私が担当してきた授業でも、生徒から「自分自身の考えや仮説が授業に生かされていく感じがして楽しい」という声を聞くことがあります。
生徒たちが、自分にとって最も適切だと思う歴史認識を獲得していく。その態度を創り上げるために授業が存在しているという構えを作ることに、私は注力しています。
(1)時系列に縛られず、「タテ・ヨコ」をつなぐ
歴史総合が近現代から始まるのは、今私たちが生きている社会の課題から歴史を問い直すためです。この視点を日本史探究でも生かし、例えば感染症やジェンダー、災害といったテーマを軸に、時代を行き来しながら多角的に考察してみる。これは、知識を単なる年表としてではなく、生きた概念としてつなぎ合わせるタテ・ヨコの関係の可視化です。これまでにも、こうしたテーマで世界・日本近現代史を通観する授業や、産業革命と現代の環境問題などを結びつけて考える授業などを実践してきました。
(2)デジタルを「学習者の道具」として活用する
教材研究の負担を、教員一人の努力で解決しようとするのは困難です。素案が「デジタル学習基盤」の活用を強調しているのは、非常に重要なポイントです。アーカイブやデータベースを活用すれば、生徒自身が一次史料に触れ、自ら探究を進めることが可能になります。
教員は歴史資料を直接収集・確認し、適切な場面で提示する工夫を行うとともに、生徒に検索の回路を設定し、レファレンスしやすい環境を構築することに注力するのも一つの方策かと思います。私自身も、国立公文書館や東大史料編纂所、国文学資料館などのデジタルアーカイブを適切に活用できるよう意識しています。
(3)アナログな「現物資料」を活用する
時には生徒たちが歴史の疑問を見つけたり、考えていくきっかけとして、資料の提示や現地調査を行うことも適切です。探究的な学びは、生徒の主体性や知的好奇心に大きく依存します。
学習意欲や能力に差があり、特に歴史的な想像が難しい生徒に対しては、映像や現物資料、現地調査、地域資料などを介して、臨場感を醸成した上で、授業を展開するのも方法として適切です。
私自身も、資料集にある荘園・守護・地頭の補任の文書などを、教科書の史料だけに依拠せず、学校所在地の歴史資料に置き換えたり、実際の資料やレプリカを収集して活用するなど、生徒が思考するトリガーを随所に仕込む工夫を重ねてきました。
生徒たちはそのような歴史資料の中から、自分なりの接点や関心を獲得していきます。大切なのは「全員の生徒に響く」という訳では無く、色々な手段や方法を実践するなかで、生徒それぞれのヒットゾーンを得ていこうとする考えとその活動の連続にあると思います。
教員の役割は、資料をすべて準備し、設計図通りに生徒を操作することではありません。生徒が情報のなかで迷子にならないよう、見極め方や分析のコツを教え、情報活用を自らのものとして獲得させていく。
教師はそのプロセスを一緒に考え、時には方向性の選択肢をナビゲートする存在です。新規の情報に遭遇したら共に考えてみる。その上で、デジタルは、教員の負担を減らしながら、生徒の主体性を引き出すためのインフラとして機能を再定義し、その活用法を検討するべきではないでしょうか。
制度的な余白の創出と問いから始まる新たな評価と授業の在り方
「余白」の創出と「知行合一」の精神で
この変化は、一朝一夕にはいきません。しかし、それは決して一人の奮闘であってはならないのです。現場の不安を地熱に変えていくためには、制度的な余白が欠かせません。
調整授業時数制度などを活用し、教員同士が知恵を出し合ったり、授業を振り返ったりするための時間的・精神的なゆとりを創り出すこと。そして、評価のあり方も、知識の量だけを測るペーパーテストから、問いを立てる力や考察するプロセスを評価していく形も盛り込んでいく必要があります。
近年の共通テストにおける歴史総合・日本史探究でも、知識そのものを評価する問題ばかりではなく、与えられた資料と歴史的理解を組み合わせて最も妥当な選択肢を選んだり、蓋然性の高い解答を導く問題も多く出題されています。
現場では、これらの出題が「日本史知識を測る問題になのか」「知識をどのように評価するのか」という議論もあります。しかし、この議論の根っこには、「日本史は知識量を評価する(べき)教科だ」という教科への観念があるのだと思います。
しかし、それらの問題を通過した大学生の日本史知識に、残るもの、繋がるものが担保されていないのならば、現場教員の認識や入試の作問姿勢も含め検討する必要があるでしょう。入試を通過した後にも残る学びとは何かという視点から、授業や評価のあり方を再考する余地があるのではないでしょうか。
まずは次の単元で、問いから始まる時間をつくってみる。生徒とともに問いを立て、仮説を出し合い、歴史事実と照らし合わせて考えてみる。子どもたちが授業で見せるちょっとした感想や意見に可能性を見い出し、そこを起点に授業を組み立ててみる。その小さな一歩の積み重ねが、やがて大きな変化につながるはずです。
参考資料

伏木 陽介(ふせぎ ようすけ)
花園中学高等学校 社会科教諭/中高一貫(ディスカバリー)コース統括・ICT担当、東西探究交流会代表
長年にわたり、探究学習のプログラム策定や実践に携わってきました。
学校や授業の改革には何が必要かを考え、現場でのチーム作りや実践を重ねております。
また、大学などの「学術知」を中高の教科指導とどう結びつけるかを追求し、共通テストの分析やICTとの接続等の教材開発に取り組んでおります。
こうした経験を活かし、未来の学びの創造に貢献したいと考えています。
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