教育現場で考える「弱い主体」の意義とは
『月刊国語教育研究』に収録されている桝井英人氏の論文「弱いまま生きるためのことば」を読みました。
その中で示されていた「弱い主体」という言葉が印象的でした。
桝井氏は高木まさき氏の問いかけを受け、弱い主体について以下のように述べています。
「…高木のいうように、われわれが、グローバル化の抑圧のなかで自己=主体形成を強いられているとしたら、そこにまず必要なのは、抑圧から形成される<強い主体>ではなく、むしろ、そのゲームの非選択、いわば「非参加」の意義の保障による<弱い主体>ではないだろうか。」
教育現場では「児童生徒が自らの意思で選択し生き抜く力」など、いわば「強い主体」の育成を目指しています。
元来、「主体」は生まれながらにして存在するものなのに、それを強制しては本末転倒のように感じます。
確かに環境面で主体が阻害される可能性もあります。
しかし、そもそも主体や主体性とは何か、それを育成することは可能なのか、我々教育者は常に考えなければなりません。
また、弱い主体を包摂するような環境づくりに努めていく必要があります。
弱い主体を支え合う関係
冒頭の論文で桝井氏は「ケア」や「カウンセリング」の視点と、国語教育の関連に言及しています。
その視点から、高瀬隼子氏の小説『おいしいごはんが食べられますように』を思い出しました。
この小説は職場での微妙な人間関係を描いた作品で、「か弱いが守られる存在」の人物が出てきます。
その人物に対するさまざまな人間模様が筆者の鋭い筆致で描かれていて、誰もが共感できる登場人物の言行が読者の胸をえぐります。
「弱い主体」と「か弱い存在」は決して同じではないですが、ケアの対象であることには同じだと考えます。
「弱い存在」を支え合うことは大切さはわかっていても、聖人君子のように立ち振る舞うことの難しさも、この小説では考えさせられます。
単純化された背後に目を向けて相対主義に陥らない教育の視点
我々は目の前のことを理解しやすくするために、二項対立のように単純化する傾向があります。
例えば強弱や多少、大小、左右などが挙げられます。
しかし、わかりやすいものには注意が必要です。
単純化された背後にあるものを、注意深く洞察しなければいけません。
世の中はもっと複雑で曖昧なものです。
児童生徒の特徴が、あるパターンに該当するものであっても、個性をないがしろにはできません。
「みんな違ってみんないい」というような相対主義にのみ傾倒するのではなく、もっと大局的に思索していくことが大切ではないでしょうか。
参考資料

廣瀨 紘太郎(ひろせ こうたろう)
千代田区立九段中等教育学校
「活動あって学びあり」をモットーに、日々研究を重ねています。特に国語科教育では、アダプテーション(翻案)の手法を取り入れた授業を実践し、生徒の深い学びを目指しています。
教科の枠を超えて、多様な視点からものごとを捉え、表面的なことだけでなく、その背後にある本質に迫ることを大切にしながらよりよい教育のあり方を皆さんとともに探究していきたいです。
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