2026.01.29
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「答え」を手放した授業の先に現れるもの ―哲学対話が拓く生徒と教師の新しい関係―

授業改革、そして学校改革の本質的な原動力は、制度の更新だけにあるのではありません。それを支える教員一人ひとりが持つ「生徒観」――目の前にいる子どもたちの可能性をどう意識するか――のアップデートにあると考えています。
私が2016年頃から数年にわたって伴走した「哲学対話」の実践は、生徒の可能性や「生徒観」を再発見、更新するプロセスでもありました。否定を排し、思索を深めることを尊重する取り組みの中で、生徒たちが放つ熱量は、教師が「正解を授ける」という観念を相対化し、教員としてあるべき姿を再考する機会を与えました。それは教職員も含めた組織に新しい空気をもたらしたように感じています。
デジタル化によるコミュニケーションが増え、働き方改革の下で、一見、非効率、あるいは遠回りと思われがちな、職員室内における会話の質や量への眼差しが変化する中、哲学対話の基本姿勢には、現在の教育の課題を克服する上での多くの示唆が含まれています。
※本稿での「哲学対話」とは、正解を求めることよりも、問いを共有し、思考を深め合うことを目的とした対話実践です。

花園中学高等学校 社会科教諭 伏木 陽介

「正解」を前提としない枠組みの構築

円になって座るだけで、教室の力関係は変わる

 

 

今から10年前、私は担任を務める道徳の授業の中で本格的に「哲学対話」と出会い、授業で実践しました。当時は全国的にも哲学対話を導入する学校は少なく、学習指導要領にも「対話的」という用語が登場していない初期段階にありました。私自身も手探りの状態でしたが、授業として導入していく過程で、哲学対話の作法への理解を深めていきました。

授業の場としては、教室の机を下げて、椅子だけで大きな円を作り、フラットな対話の空間を設けます。机を挟まずに向かい合うという空間構成は、哲学対話に限らず、大変効果的です。また、コミュニティボールという「話し手が持つボール」をクラス全員で作成しました。
そして、みんなで共有したのは、以下のようなマインドセットです。

  • 相手の意見を否定しない、論破しない。
  • 無理に発言する必要はなく、沈黙して思索を巡らせる時間を尊重する。
  • この沈黙は、思考を止める時間ではなく、思考を深めるための積極的な時間。
  • 結論を急がず、問いを共有することそのものを目的とする。

これは、一定の理解到達を目標として掲げ、学習のねらいに向けて教師が授業を進行していく一般的な形の授業とは異なる、枠組みや学習観を提示しする実践でした。教師が教壇から降り、一人の参加者として円に加わることで、教室の構造そのものを再定義する試みでもありました。私自身も生徒と同じ参加者の一人としての立場も持ちながら、ファシリテーターとして授業を展開しました。

哲学対話がもたらす、生徒の変容と「知的充足感」の創出

「結論が出ないのに、頭が疲れて楽しい」学び

実施当初は、正解を答えるわけではない授業の仕組みに、戸惑いを見せていた生徒たちでした。また、沈黙(黙思している時間)は日常生活ではなかなかない経験で、「何か話さなくては」という焦りも見えました。
しかし、静かに思いを巡らす時間の重要性を互いに確認する中で、回を重ねるごとに教室の雰囲気に変化が生じました。誰かの発言を別の誰かが引き継ぎ、さらに新しい視点が加わえていく思考の連鎖が生まれるようになったのです。また、「発言しなくて良い」(ただし思考には参加する)というルールもまた、生徒たちに学びに大切な価値を意識させることとなりました。

特筆すべきは、生徒たちが「対話そのものを楽しむ」という状態に至った点です。正解を当てるためではなく、自分の考えが受容され、他者の思考と混ざり合うプロセス。解答のない問題にさまざまな価値観があるということをお互いに認め合うことに、強い知的充足感を見出していきました。

あえて結論を急がず、複雑な問いを複雑なまま抱え続ける「思考の体力」が養われたことは、大きな収穫でした。また、生徒たちが自らの言葉で問いを深めていく姿は、自走する学びの原動力がどこにあるのかについて、私たち教師に新たな認識を与えてくれました。

ある授業の終了時、「結論は出なかったけど、頭が疲れて楽しかった」と語った生徒の言葉や、数年後に再会した生徒が「あのときの問いについて、今も考え続けている」と話してくれたことは、強く印象に残っています。

「平和」「死生観」「社会福祉」などをテーマに哲学対話の授業を実践した際には、普段の授業ではあまり発言しない生徒が、深く思索する姿を見ることができました。また、「そんな深い考え(葛藤や悩みも含め)を持っていたのか」と、ハッとさせられる瞬間も多くありました。
私自身は、社会科の教員として授業を行っています。社会科授業でも、これらの題材を扱うことはありますが、教科指導とは全く異なる生徒の動きに、そのような感慨を持ったことを覚えています。

これらの経験は、教員に対して、「生徒には、これほどまでに深く考え、対話する潜在能力がある」「私たちが授業で見ている生徒の姿は断片的なものに過ぎない」という認識を強くさせました。「生徒は未知・未熟であり、大人が導かなければならない」という限定的な生徒観が、「生徒は自走し、深める力を持っている」「生徒も日々の中で思索と学びを深めている」「今後も深めていける」という信頼へと書き換えられていったのです。
その上で、生徒に自走させる側面と、学びを深めるために教員が指導する側面のバランスが課題となりました。

「哲学対話」の教員研修を通じた生徒観のアップデート

教員こそ、対話の「参加者」になる時間が必要だった

この実践が組織に与えた影響として特に大きかったのが、教職員自身の意識の変化でした。私たちは哲学対話の導入に際し、教員自身がまず哲学対話を体験する研修を実施しました。
この研修は哲学対話の手法を学ぶためのものでしたが、自己紹介に加え、自己開示や自らの価値観を言葉にすることも含まれていました。
このような自己開示の機会は、現在の教職員間の中では、なかなかありません。教職員の間での価値の共有は、同じ教科や分掌、学年の中で培われることが多く、それ自体は大切なことですが、そこで止まってしまうこともあります。また、そのような価値の共有も、デジタル化の中では意識しないと埋没してしまうことがあります。

業務の個別化やインターネットの普及によって、多くのことがオンラインで実務的に処理できるようになりました。こうした状況は、働き方改革の中で機能性を重視する流れを生み、さらに勤務後のライフスタイルの多様化もあり、教職員同士が立ち止まって語り合う時間を持ちにくくしています。その結果、教育観の根幹に関わる議論の場を意識的に創出しなければ、同じ職員室にいながらも深いコミュニケーションを取りにくくなっています。ひいては、互いの根底にある価値を認め合い、理解し合う機会そのものが得にくくなってきているのが、現在の学校現場の一側面ではないでしょうか。

そのような中で、結果的にこの哲学対話の研修が、教員自身の対話や相互理解の機会を提供したと思っています。一般でも行われている哲学カフェとしての役割を、副次的に担うことになったと感じています。

教員の意見や価値観の交流の場としては、職員会議などの会議がありますが、実務上の会議では、ある意味で正解に向けて、具体的な意見を交差させることが求められます。そこには、抽象度の高い議論をしたり、「相手の意見を互いに認める」「論破しない」「沈黙を大切にする」といった作法や文化の両立は難しい側面があります。

一方で、教職員には、自身の経験や生徒たちと向き合う中で生まれた、一人ひとり異なる考えや思いがあります。そうした思いを声の大小によって、急いで答えへと結びつけない哲学対話の作法は、教員間のコミュニケーションにおいて、大切な余白となると感じます。

「生徒に沈黙を許していいなら、私たちも急いで答えを出さなくていいのかもしれない」。
そんな声を、研修の終わりにいただいたこともあります。

このように、哲学対話の研修は、相互の教育への熱量を理解する風潮を職員室にもたらし、実質的な組織の風通しを支える基盤を形成する可能性があると感じています。

禅の精神とデジタル時代の「対話の作法」

効率の時代に、あえて「黙って考える」価値を取り戻す

私が所属する学校には、傾聴や思索を重んじる文化が土壌としてあります。禅宗の教義に基づく坐禅の習慣は、立ち止まって物事の本質を見る「黙って考える」姿勢につながります。禅問答に象徴される自己との対話や、他者の声に腰を据えて向き合う姿勢は、哲学対話の精神と高い親和性を持っていると言えます。

近年の探究学習でも、教員や生徒間での、この「厚みのある思索」は不可欠な要素です。良質な問いやテーマの設定は、情報の検索だけで完結するものではなく、自他との対話を通じた深い内省があってこそ成立します。その上でも哲学対話の手法は多くの示唆とヒントを持っています。

ICTの活用が進み、効率的な情報共有が加速する現代だからこそ、あえてアナログな対話の価値を再定義する必要があります。これは、ICTや生成AIなどの新たな技術を取り入れないということではありません。むしろ社会の動きと教育はシンクロしていくべきであり、新たな技術に対して教育現場は真剣に向き合うべきだと考えています。
ここで私が述べたいのは、デジタル化によって会話が「ダイエット化」され、結論を早く求めがちな現在の状況です。そうした時代だからこそ、「深考」し、答えのない問いを共に考え、それを共有し認め合う豊かな時間の存在は、組織や集団を活性化し、維持するために意味を持つものだと思うのです。哲学対話は、その意味で目的ではなく、マインドセットと方法を獲得するための技術だと思います。

学校改革・授業改革の根幹としての対話

「答え」を急がない学校へ

学校改革・授業改革とは、リーダーによる指導とともに、それだけによらない、教職員が共通の問いを持ち、対話を重ねるプロセスそのものであるべきだと考えます。

生徒たちが教室で見せた「対話の喜び」を、私たち教職員もまた、学校運営や授業改善の議論の場で再現していくこと。前例や効率、経験、世代という制約から一度離れ、フラットな立場で教育の本質を共に問い直すこと。その性急な答えを手放した先にこそ、生徒も教員も主体的に参画できる、次世代の学校の姿が見えてくるのではないでしょうか。

まずは職員室の有志数名で、一つの問い(例:「良い授業とは何か?」「なぜ私たちは探究を大切にするのか?」「生徒にとって聞くとはどういうことか?」)について、30分だけ哲学対話のマインドセット(否定しない、結論を急がない)で語り合ってみることからでも、新しい空気は生まれるかもしれません。

ーーー私たちは今、どれほど答えを急いでしまっているのでしょうか。生徒の可能性を信じ、私たち自身もまた問い続ける。哲学対話が教えてくれたこのシンプルな姿勢こそが、これからの学校改革を支える確かな背骨になると確信しています。

※哲学対話の手法に関しては 共著(筆者)『中学道徳ラクイチ授業プラン』(学事出版、2021)でも紹介しています。

伏木 陽介(ふせぎ ようすけ)

花園中学高等学校 社会科教諭/中高一貫(ディスカバリー)コース統括・ICT担当、東西探究交流会代表


長年にわたり、探究学習のプログラム策定や実践に携わってきました。
学校や授業の改革には何が必要かを考え、現場でのチーム作りや実践を重ねております。
また、大学などの「学術知」を中高の教科指導とどう結びつけるかを追求し、共通テストの分析やICTとの接続等の教材開発に取り組んでおります。
こうした経験を活かし、未来の学びの創造に貢献したいと考えています。

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