2024.01.15
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先生にとってのなんだかとてもたいせつなもの 毎日の階段の上り下りからわかること

ふだんなにげなく私たちが学校でしている行動の中に、実は教育相談的には奥深いことも含まれているような気がしています。もしかしたらそれが、年数を重ねるごとにだんだん見えなくなっていく校内での私たち自身(先生としての)の立ち位置を表すとしたら、どうでしょうか。

静岡市立中島小学校教諭・公認心理師 渡邊 満昭

階段での子どもたちとの関わりから生まれるもの

私たちの日常は、学校の階段を上ることから始まる方がほとんどではないでしょうか。自分にとっての階段は、ある意味自分の今の調子や状況を把握する指標のようなもの(実は、競技のために階段でのトレーニングの機会が非常に多いもので)なのだと思っております。一歩も踏み出したくない足取りの重い日は実際にあります。でも駆け上がりたくなるような日も確かにあります。それがこの仕事の日常であり魅力でもあるのかなと思ったりします。

いつの間にか子どもたちの会話に加わるというか割り込んでしまうというか、そんな機会も階段であることが多いのです。なぜか廊下ではないのです。

階段なら、前を行く子どもたちのリズムに歩調を合わせて上っていくことになります。視線が同じくらいになり、子どもたちの楽しげな様子がよく分かるというのも理由の一つでしょう。もちろん悲しげな気持ちだろうなという場合であっても、分かるような気がします。

もう少し考え直してみると、私の場合は日常よく会う子どもたち(自分のクラスや同じ学年の子たち)にはクラスやクラス近くのたまり場で話をしています。そうではない子たちからも最近は声をかけられたり話しかけたりすることが増えているのですが、それはどうやら階段での会話がきっかけとなっているようなのです。

人とはちょっとした関わりのきっかけがあれば、また話しやすくなるでしょう。それは大人も子どももそれほどかわらないと思います。階段とはそのちょっとした関わり作りの場なのかなと思うのです。

階段での関わりの意味はなんだろう

自分にとってはこうした階段での関わりは何の意味があるのでしょう。

それは子どもの話が分かるのか、自分の話が受け止めてもらえるのかを客観視する場になると思っています。クラスの子たちとは気心が知れていますし、一緒にすごす時間も長いので後で補うこともできますが、そうではない子たちとの関わりで、自分の立ち位置が分かる気がします。子どもと話がかみあわない、そんなときはたいてい自分が何か心配事を抱えているとか体調が悪いとか、自分の側にも思い当たる節が見えてきます。

聞いたり話したりしながら子どもの主体性や自立を支えていくのが私たちの役目の内にあるのなら、やはり相手の心に届くような会話ができるといいなと思っていますし。


子どもにとっての関わりやすい先生を増やしたい

子どもたちにとっても学校の中に話しやすい先生が増えるというのであれば、それはそれで良いことなのだろうと思います。発達段階が様々で自分のことをまだうまく説明できない子も含まれる小学校の現場では、クラス外からもなるべく多くの目で見守る目が必要です。楽しい子どもたちとのおしゃべりが、実はこうしたセイフティーネットの下支えになっているとも思うのです。その意味で保健の先生は、見事に学校全体の一人一人と上手に関わりをお持ちだなと思います。そこに加えて私たち(各先生方)がクラスを超えた関わりを持っていれば、それこそ縦横無尽のサポートが期待できそうです。

さてあなたは、学校の中ならどの子とも聞いたり話したりできますか。改めて考えるとやさしいようで意外に難しさのあることなのかもしれませんね。私ももう少し指標を探して、工夫してみようと思います。

渡邊 満昭(わたなべ みつあき)

静岡市立中島小学校教諭・公認心理師・学校心理士・環境教育インタープリター・森林セラピスト


いつの間にか、小中学校全学年+特別支援学級+特別支援学校+通級指導教室での担任を経験し、生徒指導主任+特別支援教育コーディネーター+教育相談担当経験も10年を超えていました。すると担任を離れたとたんに何かを忘れてしまって、担任に戻ってみると忘れていたことに気がつくということがたびたびありました。それはうまく言えないけど何だかとても大切なもの。先生を続けていくための糧のようなもの。
その大切なものについて、自分の実践と合わせお伝えしていこうと思います。

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