2020.04.14
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演劇との出会い

小学生に演劇を教えています。初回は、自己紹介を兼ねて、私と演劇との出会いを紹介したいと思っていたのですが......。

尼崎市立立花南小学校 主幹教諭 山川 和宏

はじめに

私が勤務している兵庫県尼崎市では、毎年小中学校の演劇発表会が行われていて、今年1月には第70回目の演劇発表会を開催した。場所は、兵庫県立尼崎青少年創造場(ピッコロシアター)。70年もの長きにわたって演劇発表会が続いているというのは、全国でも大変珍しい例なのではないだろうか。さすが江戸時代の有名な戯作者、近松門左衛門の眠る町である。
ところが、新年度になってすぐに、演劇発表会が昨年度を最後に打ち切られることになったという衝撃的な連絡が入った。事業仕分けの中で狙い撃ちにされるのが文化・芸術事業というのは世の常だが、70回も続いた演劇発表会であっても、その例外ではないのだった。
もちろん、何とかして演劇発表会の存続の道を模索したいと考えているが、この連載を通じて、子どもたちに演劇を教えてきたことにどのような意味があったのかを整理し、演劇という手法が教育の上でどのような成果を上げてきたのかを検証したいと思っていた私にとって、このようなタイミングでの連載開始になってしまったことに正直戸惑っている。

以下の文は、そのような事態が判明する以前に書いた文章である。初回ということもあり、自己紹介を兼ねて肩の力を抜いて書いたものなので、今読み返すとそのお気楽ぶりに呆れてしまうのだが、そのまま掲載させていただきたいと思う。

演劇との出会い

小学何年生の時だったか定かではないが、劇の中で当時流行していたチェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」を歌っているグループがあったので、おそらく高学年の頃だったろう。クラスのお楽しみ会で、それぞれの生活班が、短い劇を自由に発表し合うことになった。
私の班は、私が考えたオリジナルの劇を上演した。13日の金曜日、学校の帰り道に拾った猫を虐めた主人公が、その夜遅く、猫の呪いによってトイレに閉じ込められて恐ろしい体験をしてしまう…という他愛のないストーリーだったが、アンコールを受けて2回も上演したから、それなりに好評だったのだろう。観客である級友たちが心地よい反応を見せてくれたことで、演じていてとても楽しかった記憶がある。それが、自分が演劇というものを意識した最初だった。もっとも2回目の上演中に、背負っていたランドセルの横に引っ掛けていた給食袋の中の箸箱が顔面に直撃して、口の中を切ってしまい、演技どころではなくなってしまったという苦い思い出も強烈に残っている。

そのような成功と失敗が合わさった体験をきっかけにして、演劇の魅力にすっかりとはまってしまい、演劇大好き少年となった……というようなことはなく、その後ずっと演劇とは無縁の学校生活を送っていた。次に演劇と向き合うことになるのは、大学を卒業してからのことである。

当時、昼間は大学院で日本史学を研究し、夜は専門学校の夜間部で映像制作の勉強をするという生活を送っていた。そんな中、「映像制作をするのなら、まずはきちんと脚本を書く技術を身に着けたい」と考え、学校は休学し、富良野塾に入塾することになった。
富良野塾は、脚本家の倉本聰先生が主宰する役者とシナリオライター養成のための私塾で、塾生は北海道の人里離れた広大な敷地の中で2年間の共同生活を送り、農業その他で生計を立てながら劇を制作し、演技や脚本について学ぶ。
富良野塾では、いろいろなことを教わったが、「創ることに向き合う創り手としての姿勢」を叩きこまれた。それが、自分が子どもたちに演劇を教えている根本になっているのは間違いない。
では、実際に子どもたちにどのようにして演劇を教えているのか。そして、そこで子どもたちはどんな成長を見せてくれたのか。

次回から、紹介していきたいと思う。

山川 和宏(やまかわ かずひろ)

尼崎市立立花南小学校 主幹教諭
富良野塾15期生。青年海外協力隊平成20年度1次隊(ミクロネシア連邦)。
テレビ番組制作の仕事を経て、小学校教師になりました。以来、子どもたちと演劇を制作し、年に2回ほど発表会を行っています。

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