2023.05.10
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めがね的な何か

めがねを拭きながら。

東京学芸大学附属大泉小学校 教諭 今村 行

めがねを買った時のこと

めがねをかけています。ときどきコンタクトです。
めがねをかけるのは、目が「悪い」からです。
めがねをかけないと、日常生活に支障をきたします。かけていないと人様に迷惑をお掛けする、というほどのことではないのですが、まぁないと自分自身としては困るわけです。

初めてめがねを買ったのは高校生の頃のことでした。
めがねを作るというときには「いよいよ自分もめがねがないと生活できないのか」というがっかり感みたいなものも、少しはあったように思います。
ただ、めがね屋さんに行ってフレームを選んで、視力を計測していただいて、という工程を踏むにつれてだんだんとワクワクもしてきて、「なんだかすごく大人の体験をしている」と思ったのを覚えています。
大学生になって、初めてコンタクトレンズを買いに行った時もドキドキはしましたが、めがね屋さんに初めて行った時ほどの気持ちの高揚はなかったように思います。
大人になって、こういうフレームのめがねが自分の顔に似合うかなぁとか、こんな服装ならこのめがねを合わせたいなぁとか(生意気にも)考えるようになり、楽しくめがねを使うようになりました。

めがねの意味の移り変わり

めがねの歴史ってすごく面白くて、たとえば13世紀の西欧諸国では、「悪魔の道具」と言われていたそうです。お察しのとおり、教会中心に価値観が形成されていた当時、歳をとって近くのものが見えづらくなるのは神の与えた苦痛だから受け入れるべきだという考え方が主流でした。それに対抗するかのような道具は悪魔の所業とされたのです。(お察しの通り、めがねの歴史は老眼用のほうが古く、近視用はずいぶん後になって登場します)

また、めがねと文字を読むということは切り離せない問題なので、一部の相当なエリートしかめがねを必要とはしませんでした。一般大衆にめがねが広まっていくのは、15世紀に印刷技術が爆発的に発達することがきっかけとなったようです。
また18世紀ごろには、目上の人の前にめがねをかけて出るのは失礼にあたると考えられていました。自分の博学を目上の人に自己宣伝するようなものだと捉えられたのです。現在でも、教育水準の高さとめがねの普及率は比例関係にあるのだと言います。
ファッションと結びつくのはもっと後、デザイナーがめがねのデザインに進出した1940年代以降で、そこからめがねを楽しむという考え方が一般的になってきました。

このような歴史を見てもわかるように、僕らは目が「悪い」ということを、べつに悪いこととして捉えなくていいようになりました。
それは、ものすごいことなんじゃないか、と思うのです。

「めがね的な何か」を

長々とめがねの話をしてしまいました。いったいこの話はどこへ向かうのかと心配されそうですが、何とか最後は教室でのことと結びつけたいと思います。

僕は今、目が「悪い」というビハインドを抱えてはいますが、めがねを使うことによって、日常生活にほとんど支障をきたすことがありません。なんなら、この状況でめがねを楽しむこともできている。誰かに「めがねなんてかけるな。自力で目を凝らして遠くのものを見ろ!見えないのはお前が怠けているからだ!」なんて言われることもない。

人間はそれぞれに凸凹があって、強みもあればビハインドもあります。それは教室という場でも全く同じことで、様々な強み、ビハインドをもった人間が集まっている。外から見てわかりやすい強み、ビハインドをもっている人もいれば、外から見てパッとはわからない強み、ビハインドをもっている人もいる。周囲の人間への影響の与え方も様々です。強みにフォーカスしてその子が伸びていけるようサポートすることに加え、ビハインドと言えることがあったとしても、「めがね的な何か」を得ることができればずいぶんと生きやすくなるのではないでしょうか。目が「悪い」ことをべつに悪いこととして捉えなくていいようになる、そのようなことが教室でももっとたくさん起こっていいんじゃないかと思うんです。

価値観は、変わりゆくものです。めがねですら、悪魔の道具と言われたり、目上の人の前でつけるのは失礼だと言われたり、スタイリッシュなファッションアイテムと見做されたり、ずいぶんとまぁ意味が変わっています。
学校という限られた時期、空間の中での価値観は絶対的なものではありません。そこで仮に「マイナス」と見えるようなことがあっても、「めがね的な何か」を得ることでその場を乗りこなしやすくなるかもしれない。必要のない状況ではそれを外せばいい。

繰り返します。
僕らは目の「悪い」人に対して、自力で視力を良くしろ、自分で目を凝らせ、できないのはお前が怠けているからだ、とは言わない。もちろん、個人の努力でよりよくできることもあるけれど、そうじゃないこともある。そういうものごとをこそ、僕らは目を凝らして見分けなければいけなかったはずです。特に教師なんていう仕事は。

その人の状況を理解しようと努め、その人の瞳に映る世界をクリアに、光に溢れるものにできるように「めがね的な何か」を手渡す。
そんなふうに考えてみてもいいんじゃないかなと、めがねを拭きながら時々考えます。

今村 行(いまむら すすむ)

東京学芸大学附属大泉小学校 教諭

東京都板橋区立紅梅小学校で5年勤めた後、東京学芸大学附属大泉小学校にやってきて今に至ります。教室で目の前の人たちと、基本を大切に、愉しさをつくることを忘れずに、過ごしていたいと思っています。

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