2022.07.28
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「わかる!」?

「違和感」っていいよね、って話です。

東京学芸大学附属大泉小学校 教諭 今村 行

どうも、今村です。
私たちは、日々違和感を覚えて生きています。
違和感があるのは、見方によってはストレスなので、忌むべきものと捉えられるかもしれません。違和感のないほうが、ストレスフリーなのかもしれません。

でも、そこで感じた違和感は、自分にとって大切にしたいこと、価値観と呼べるものと、世界との接点で生まれた摩擦のようなものだとも言えます。その摩擦を感じないようにする、つるつると滑りのよいものにするというのは、自分の価値観を磨耗させることなのかもしれない。世界の方は、変わらないことが圧倒的に多いですから。

だから、違和感をできるだけ注意深く観察してみる、ということも大切なことなのかな、と思っています。
今回観察してみたいのは、僕が日々感じている「わかる!」という言葉についての違和感です。お付き合いください。

誰かの「わかる!」を聞くときに

教室で「わかる!」という言葉が発せられた時、大抵の場合それは好意から生まれるものだと思います。誰かが一生懸命発言したり説明したり、文章化したりしたものを受け取った人間が「わかる!」と言った時、それは承認の言葉であり、言われた側の人間は多くの場合ホッとして表情を緩ませる。そこには、なんというか人間の美しいやりとりがあると感じられます。

ただ、教師として教室に立っていて、「わかる!」という言葉が飛び交ったとき、「それって本当にわかっているのかな?」と疑問に感じることは、度々あります。また「わかる、といっても、どれくらいわかっているのかな?」と感じて、質問を投げかけることもあります。そうすると、「わかる!」と言った人も、言ってもらった人も、ちょっとびっくりしたような、少し眉間にシワを寄せたような顔で僕を見ます。余計な水を差してくるなよ、という感じですね。

また、大人同士で話していて、自分が何かを説明しているとき、「わかる!」と相手に言われて「え?」と感じたことがある人は多いと思います。説明の序盤で、まだ絶対に「わかる」はずがないタイミングで、「わかる!」と言われ、悪い場合は相手が自分の話をし始めてそれが全く関係のない話、これは絶対わかってない…ということ、ありますよね。

もちろん相手が、圧倒的に経験値が上で、本当に「わかっている」こともあります。ただ、そういう方は大抵話し手が話しやすいように「ここまでわかったよ、それで?」というお互いにとっての「セーブ地点」的に「わかる」という言葉を使ってくれます。こちらの説明力不足もあるわけですから、それを助ける意味でも「わかるよ」という言葉で応援してくれるわけですね。「ゴール地点」として「もうわかったよ」と言うことはあまりありません。

「ゴール地点」としての「わかる!」を使ってしまうのは、大抵経験不足で、相手の世界を見誤った結果であるように思います。

厄介なのは、「わかる!」と言った本人に悪意がない、ということです。まさか相手を傷つけようとしては、言っていない。だから「いや、まだ絶対わかってないです」なんてことを言うと、大体「え?」という顔をされます。まさか、そこに摩擦が生まれるとは思っていなかったんでしょう。悪い場合は「こっちはわかってるのに、なんてことを言うんだ」という感じで、被害者の立場になって責めてくるかもしれません。

困ったもんです。

自分の「わかる!」を聞くときに

これはもう、私の「つれづれ日誌」のテンプレートみたいになっていますが、じゃあ翻って自分はどうだろう、ということを考えずにはいられません。

子どもの話を途中で遮って「わかる!」と言ってしまったことはなかったか?
本当は、その先にその子の本当にわかってほしいことがあったのかもしれないんです。「この人に言ってもダメだな」と思ったら、その子は僕に話す中で、そこに摩擦を生じないように言葉を選び出します。表面上は話しているかもしれないけれど、コミュニケーションの席から退場するんですね。

目上の人たちに対して「わかります!」と見栄を張って言ってしまったことも、たくさんあります。それが、その人に認められるためのことだと思っていたから。

でも、結果としてそれは「こいつ、本当にわかってないな、わかろうともしてないな」と感じさせることだったんです。それに対して「わかってるのに、失礼な!」と僕が思うのは勝手かもしれませんけれど、そのプライドは僕をどこへも連れて行ってくれません。相手の方も、あえて摩擦を生んでまで僕をなんとかしようとまで考えてくれませんから、ニコニコしながら、コミュニケーションの席から退場していったのだと思います。

「わかりたい」という、それだけのことが、言えなかったばかりに。

自分がこうはありたくない、と思っていたことを、無意識にしてしまっていたことは、たくさんあります。自分自身が「困ったもん」なんです。そういうのも、日々の違和感を見て見ぬふりをしていたら気付けなかったかもしれない。

言葉は、摩擦をなくすものではなく、摩擦を生むもの。違和感をなくすためのものではなく、違和感をはっきり見えるようにするためのもの。言葉を学べば学ぶほど、不自由が目に映るようになるかもしれないけれど、だからこそ、言葉を学ぶ意味があるのだろうと、今は思っています。

今村 行(いまむら すすむ)

東京学芸大学附属大泉小学校 教諭

東京都板橋区立紅梅小学校で5年勤めた後、東京学芸大学附属大泉小学校にやってきて今に至ります。教室で目の前の人たちと、基本を大切に、愉しさをつくることを忘れずに、過ごしていたいと思っています。

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