「自分ではない」
たくさん「絶望」って出てきますが、何も悪いだけの意味ではなく、「そこからはじまった」という意味もあるなぁと思います。
東京学芸大学附属大泉小学校 教諭 今村 行
どうも、今村です。
今回はなんとなくタイトルの言葉がポッと浮かんだので、その言葉から自分の中の経験や考えを引き摺り出して書いてみようと思います。
「この仕事をしていて、何度絶望しただろうか?」と問われたら、あなたはどのような出来事を思い起こしますか?
はじめの絶望
僕の場合、最初の絶望として一番大きかったのは、「今の自分の力では何もできない」と、ある子の前で立ち尽くしてしまったことだろうと思います。
自分の圧倒的な力不足をわかっていながらも、全くと言っていいほど効果的ではない形で言葉をかけたり、叱ったりして、それは決してその子にとってはいい時間ではなかっただろうし、自分もどんどん疲弊していきました。
喩えるならば、僕の持っている「水」の量では、その子の(加えて他の子たちの)渇きを満たすことは全然できなかったんです。先輩方は、君の責任ではない、ということを言ってくれて、その時はその言葉に縋って寄りかかって責任を回避するしか、息をする方法がなかった。
今思えば、その頃の僕は何の根拠もなく夢や希望に満ち溢れていて、自分の関わる子どもたち「みんな」を、それぞれがもっている様々な困難や問題を、自分がなんとかできると思っていたのだろうと思います。
「水」を無尽蔵に持っていると錯覚していた。無根拠な、悪気のない自分の善意が、子どもたちや自分自身の心や時間を削り取っていく、という事実を突き付けられた。持っている「水」が、絶対的に足らない。
それは、大きな絶望でした。
そこから、少しでも自分の持てる「水」の量を増やして、自分が何とかできることを増やしたい、と思って仕事に励んできました。
できることは、少しずつ増えていきます。でも、その先にまた、さらに大きな絶望と出会うことになります。
深い静かな絶望
自分の関わる子どもたち「みんな」のことを自分が何とかできるとはとても思えない。公教育に携わる以上、関わる子どもたちに公平に関わる必要はあると思いますが、自分が持っている力量や時間には限りがあり、それを関わる全ての子どもたちに均等に分けられるわけではありません。
自分が持っている「水」には限りがあり、今真っ先にそれを届けるべき人がいるならば、そこに届けなければいけない。
そこでぶつかったのは「『水』の量は足りているのかもしれないけれど、僕からは受け取ってもらえない」ということでした。
「水」の量は、おそらく足りているんです。でも、それを渡すのが僕からだと、どうやら受け取ってもらえない。子どもたち「みんな」のことは救えなくても、今「水」を届けるべきと信じた相手には届けたい。
そうやって持って行ったところで、その相手に「あなたからは受け取りたくない」と言われるんです。
多分、自分の届け方がいけなかったんです。自分と、相手との信頼関係の築き方が、足りなかったのかもしれない。
でも、じゃあ、そこに持って行った「水」は次どこかに使い回せるかというと、使い回せないんです。「覆水盆に返らず」じゃないですけど、そこに持って行った自分の労力や時間はもう戻ってこない。
自分が信じた相手だから、相手を悪くも言いたくない。
言えない。
相手に必要なのは「自分ではない」ということを知るために、この「水」を使ったんだ、ということに、一人静かに納得しなければいけない。
でも、でも、その「水」は誰かを潤せたかもしれないものだったんです。全員には届けられないという覚悟をもって、大切にその人の元へ運んだものだったんです。
それは、派手ではないのかもしれないけれど、深い絶望です。
常々、学校ってすごいな、救いだな、と思うことは仮に僕が「自分ではない」と思い知らされたとしても、様々な大人が、入れ替わり立ち替わり、手を替え品を替え、「水」を届けようとしてくれることです。
小学校で言ったら、きっと6年間のどこかで、「水」は届く。
それが「自分ではない」こともたくさん、たくさんあるけれど、たまたま自分が「水」を届ける立場になることもある。確かに絶望はあるけれど、僕らはチームとして、それを乗り越えてゆくことができるだろうと思います。
学び手としての絶望
ただ、最後にもう一つだけ絶望の話があって、大人になったら「入れ替わり立ち替わり、手を替え品を替え、『水』を届けようとしてくれる」なんて都合のいい話は殆どありません。
僕はどこかで、誰かが自分にもってきてくれた「水」を無意識にせよ、生意気にせよ、受け取らず捨ててしまったことがあったかもしれない。
いえ、勿論、あったんです。
あの時持ってきてもらった「水」の大切さに、後になってハッと気付いて、もう一度願っても、それは二度ともたらされない、と思ったほうがいい。
「覆水盆に返らず」なんです。
その時思い知る「自分ではない」ということも、僕の経験した、大切な絶望の一つです。
今村 行(いまむら すすむ)
東京学芸大学附属大泉小学校 教諭
東京都板橋区立紅梅小学校で5年勤めた後、
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