ライスバーガーの発想 [教育的勇気]
「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体化の実現を目指す「令和の日本型学校教育」が叫ばれる昨今。私にはずっと考えていることがあります。
それは、10年後の教師像です。もっというと、10年先にも持続したい教師の指導観とは何なのか。ずっと考えています。
いざ教壇に立つと、効果的な方法がほしくなります。そうすると、ついつい「どの子もが輝く」「明日から使える◯個の技」という言葉が踊るハウツー本に目がいきます。そうやって手に入れた実践を意気揚々と行います。しかし、実際にはうまくいきません。それはなぜでしょうか。教師の指導力の問題でしょうか。わたしは少し違うと思います。わたしは、教師の思いと子どもの認知にズレが生じているからだと思います。パンを食べたい子どもに、無理やり白米を押しつけてもダメなことは明白です。教師は白米を食べさせたいが、子どもはパンに喜びを感じているため、ズレが生じているのです。
ライスバーガーの発想が必要なのです。
その発想はどこからくるのか。それこそ教師の指導観だと思うのです。
つまり、指導の根底にある教師自身の指導観を見つめ直す必要があると思うのです。
そこで本稿は、ヴァン・マーネン著『教育のトーン』から温故知新。約20年前の書籍にヒントを探ります。
高知大学教育学部附属小学校 森 寛暁
子どもに観察される教師の行動
心に残った強烈な言葉を引用します。
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真の恋人は相手のふりに長くはだまされないように、子どもは教師の見せかけの情熱や偽りの専門性にだまされない。(中略)自信があるふりをしようとする若く未熟な教師は、すぐに我を見失ってしまう。
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教師の「うそ」や「ふり」に子どもは敏感です。
自力解決の際、動きが止まっている子の気持ちを想像してみましょう。
「ぼくは困っているのに、なんで先生はみんなの名前が書かれた紙を持ってウロウロしているんだろう?」
一応解決できた子の気持ちも想像してみます。
「A君が困っているのに、なんで先生は私のノートばかり見ているの?」
このように考えてみると、教師の行動がいかに子どもに誤学習の機会を与えていることが分かります。
でも、研究授業なので、背に腹は変えられない。本当にそうでしょうか。
ある先生の算数授業から
先日、海沿いの小学校で1年生の算数の授業を参観する機会に恵まれました。ひき算「求差」の場面でした。
A先生は、自力解決の場面で、計画していた授業展開を変えました。わたしは授業後、その理由を尋ねました。すると、「子どもの様子を見ると困っている子どもが多くいたから、これはマズイと思いました。だから再度全体で確認する場面を設定しました」と言いました。
大勢の先生が参観する研究授業で、このような行動を取ることができる勇気を感じました。授業者の先生は、「ただ自分の思いに正直に行動しただけです」と言っていましたが、とても価値のある行為です。
教育的勇気
そこで、わたしは教育的勇気を提唱します。
教育的勇気とは、
教師が予期せぬ子どものつまずきや好奇心を見取り、授業展開を変える・変えない判断を下す精神力。
「教育的勇気」が授業力アンケートの項目にある。
事後協議で「教育的勇気」が教師間で共通言語として使われる。
そんな日が10年後の教室に訪れます。
森 寛暁(もり ひろあき)
高知大学教育学部附属小学校
まっすぐ、やわらかく。教室に・授業に子どもの笑顔を取り戻そう。
著書『3つの"感"でつくる算数授業』(東洋館出版社)
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