2021.05.12
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義務ではない。ならば、何故と問いながら

日本語補習校は義務教育でも公教育でもないので、一年ごとに「進級するかどうか」についてみんなが考えます。小学部から中学部への進級(進学)なら尚更です。今は年度初めですが、既にその道程は始まっているのです。

ユタ日本語補習校 小学部担任 笠井 縁

どうして中学部でも補習校に通うのか

2年前、初めて6年生の担任になった時、私個人の勝手な使命感としてできるだけ多くの生徒を中学部へ送るという事を念頭に置くようになりました。小学部では10~15名のクラス(1学年1学級)でも中学部では1ケタ前半の小さなクラスになりがちで、経営面でも教員1人に対して生徒数が少なければ採算を合わせるのは難しいのです。何よりせっかくの学校なのだから集団で学ぶ楽しさや意義も提供したい。中学部以降の生徒数が伸び悩むのは、バイリンガル教育を小6まで続けてきて疲弊してしまい、小学部卒業という一区切りがつくことで「もういいよね」と親子共に感じた場合ではないかと。それを乗り越える、または覆すには何ができるでしょう。

少しそれて持論を述べます。苦労をしてでも補習校に通う意義は、小学部までは日本語での教科学習やバイリンガルの基礎作りという側面が大きいですが、学年が上がるにつれて別の要素の比率が増えてくると思います。小学部でも5~6年生になれば「なんで自分はこんな苦労をしているのか」と、今まで親に言われて通ってきた補習校生活の意味を自問し始めます。

そして同時期に、アメリカ社会の中で少数派に属するユニークな自分の立ち位置やアイデンティティを模索し始めたりもすると思うのです。これはハーフの子も日本から親の駐在で来ている子もです。そこで中学部以降の補習校では「似たような境遇の仲間がいる」ということが大きな意味を持つようになります。

ですので、私は小学部卒業で一区切りをつけるという選択も否定しませんが、確固たる辞める理由(別の興味対象に邁進する等)が特にないのであれば続けて中学部に進み、それまでに培った日本語でこれからの自分や社会について仲間と一緒に考え続けてほしいなぁと老婆心で願うのです。

この3つが実感できれば、きっと

そのためには、仲間との横のつながり、学びそのものの楽しさ、自分の成長を児童自身が実感できることが必要です。

仲間との横のつながりについては既述した部分と重なりますが、ではこれを促進させるために教員に何ができるのかと言えば、授業内で生徒間の対話が前向き且つ活発に行われるような場を作っていくのが大きな仕事です。逆説的には、教科学習を利用して自己表現と他者の受け止めを実践する場とも言えるでしょう。知識を一方的に伝達する講義型授業や教師と生徒との対話だけではこれは実現できません。

次に、学びそのものの楽しさ。生徒同士の対話が実現している教室であればそこにも学びの楽しさは見出せますが、それとは別に教員と児童生徒間の成熟した対話も重要です。

私は高校まで日本の公立校、その後数年間のフリーター期間を経てアメリカに留学したのですが、アメリカの大学生活で「学ぶって面白い!」と虜になって今に至ります。日本の大学については受験さえもしていないので何も知りません。そういう意味では補習校中学部に意味を見出せず小6で卒業する児童と同じ。高校まで学校に行ったからもういいでしょ、と18歳の私に進学する気は全くありませんでした。ではアメリカの大学で何に惹かれたのかというと、教授たちが常に「君の考えは?」と問うてくれていると感じられた点です。

その上で私の表現方法が伝わりにくい場合はそれを率直に指摘し、また必要であれば先生自身が「私はこう思う」と応えてくれる。生徒同士の議論では若さ故に短絡的になったり行き詰まる事もありますから、そこで教授が別の視点を提示して話し合いを再活性化する。そして「今答えが出なくても考え続けることが大事」という姿勢も教授たちから学びました。

3つ目の自分の成長を実感するという点は、実は昨年度受け持ち児童の保護者から頂いた言葉です。どうしても進級する必要のない補習校中学部。小学部卒業で区切りをつけても「ここまでよくがんばった」と言える。でもここで辞めることの意味、続けることの意味を12歳なりに考えて親子で話し合い結論を出す。どの家庭でもこういう過程があったことでしょう。

ユタ補習校の保護者には「子どもの意思よりも親の考え優先で中学部へ進ませる」という方は皆無と言えます。「子どもにやる気があるなら応援します」という方ばかりです。年度末に、ある保護者から「自分たち親以上に子どもたち自身が成長を感じられたから、中学部進級への自信と勢いにつながったように思う」という嬉しく重い言葉を頂き、私自身も気付かされました。自信と勢い、確かにどちらも必要です。

教育ビジネスとしての緊張感も

補習校を卒業したからと言って、子どもたちの学びが止まってしまう訳ではありません。現地校はもちろん続きますし、別の興味を探求し才能を伸ばしていこうとする時にどうしても時間的制限が出てきて取捨選択しなければならない場合もあります。また本当に二か国語を学ぶ事に疲弊している場合は無理をする必要もありません。ですが、どの段階でも卒業時(または退校時)にはその理由が前向きであってほしいと願います。

母国語の教育では、年度が新しくなれば自動的に進級します。子ども自身が進路を自分事として考え出すのは大学進学時でしょうか。それが補習校ではもっと頻繁に、そして早めに起こります。ですから担任は、どの生徒も成長と意義を実感できるように1年間の見通しを立て、一週一週を大切にしなければと肝に銘じるのです。

成果主義と言えなくもないですが、私は担任としての「成績」がこんな風にピリリとした緊張感と共に目に見えるのもいいかな思っています。現に補習校ではどの学年の先生でも、児童や保護者が進級を迷うとなると「自分にもっと何かできることがあったのではないか」と考える方も多いです。教員が過度の責任を負う必要もないのですが、義務教育ではないからこそ意義を見出す努力が試されます。

笠井 縁(かさい ゆかり)

ユタ日本語補習校 小学部担任


アメリカの小さな補習校で多文化の中で成長する子どもたちと一緒に学んでいます。アメリカの現地小学校でも非常勤で子どもたちと接し、日本との違いに驚くこともありますが、子どもたちの学びの過程には共通する部分も多いのではないかと思っています。

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