2021.03.24
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学級が上手くいっている先生は何をしているのか? 最終回

学級が上手くいっている先生は、修養をしています。修養を続けていくには、学ぶことの楽しさを知ることが大切です。今回は論語を題材として、修養をテーマにお話しします。

市原市立八幡小学校教諭 木更津技法研所属 山本 裕貴

「研究と修養」

本年度、多くの研修が中止になってしまいました。感染症拡大予防が主な目的です。しかし、無くなったことで、私たちには非常に多くの研修機会があったことに気付かされました。
何故、私たちはこれほどまでに研修機会に恵まれているのでしょう。その法的根拠は教育公務員特例法にあります。

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第21条 教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。
第22条 教育公務員には、研修を受ける機会が与えなければならない。
(教育公務員特例法 | e-Gov法令検索)
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このような根拠によって、私たちは研修を受けることができます。研修とは、この法律においては「研究と修養」のことを指します。では、研究と修養とは何でしょう。分からないときは、私はすぐに辞書を引きます。次のようなことが載っていました。

◆研究→物事を学問的に深く考え、明らかにすること。
◆修養→知識を高め、品性を磨き、人格形成に努めること。

なるほど。これは2つとも教師には欠かせないものですね。しかし、この定義に当てはめると、疑問があります。私たちは、研究は大いにしています。校内研究、授業研究、教材研究。これは、勤務時間の中に割り当てられることも多いですよね。

でも、修養はしているでしょうか。

そうです。私たちは研究の場は多く与えられていますが、修養の場はそうではありません。しかし、優秀な先生方は必ず修養、つまり自己の人格を磨くための努力をしています。
では、どのようにすれば、修養を続けていくことができるのでしょうか。私は「学ぶことの楽しさに気付く」ことが大切だと考えます。今回は「論語」に焦点をあてて、学ぶことの楽しさに気付くことができるようなお話をしたいと思います。

【人能(よ)く道を弘(ひろ)む。道の人を弘むるに非ず】

私たちの道徳心や倫理観に大きく影響を与えた書物があります。それが「論語」です。論語が日本に伝わったのは西暦400年前後とされ、仏教とともに全国に広がっていきました。論語は、中国の思想家である孔子の教えを弟子たちが書きまとめたものです。ですから、書き出しは「先生が言われた。◯◯」という文章になっています。

江戸時代では、幕府の学問として取り上げられ、多くの寺子屋で論語が暗唱されました。つまり、当時の子どもたちに教えるべき内容であったということです。孔子の多くの言葉の中から、1つ私が好きなものをご紹介します。

『先生が言われた。「人が道を広めるのだ。道が人を広めるのではない」』

このままだと意味が分かりづらいですね。道という言葉は「正しい行動」「真理」「道徳」などと訳されます。言葉の本質はすべて一緒ですが、ここでは「道徳」に置き換えてみましょう。すると次のようになります。

『先生が言われた。「人が道徳を作り、広めるのです。道徳が人を作り、広めるのではありません」』

ぐっと身近になったのではないでしょうか。私たちは秩序ある社会で安心・安全に暮らしたいと願っています。そのような社会を作るためには、道徳が欠かせません。
では、私たち人間が道徳という環境を作るのでしょうか。それとも、道徳という環境が私たち人間を作るのでしょうか。
孔子は前者だと言っています。みなさんはどう思いますか。

【道徳とは何ぞや】

そもそも、道徳とは何でしょうか。手元の辞書を引いてみると、次のように書かれていました。

「人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体」

ううん。どうも抽象的で分かりづらいです。こういうときは観点を変えてみましょう。
昔の偉人たちは道徳をどのように捉えていたのでしょうか。

渋沢栄一をご存知ですか。日本資本主義の父と呼ばれ、新紙幣の図柄に選ばれた人物です。栄一の著書で最も有名なものは「論語と算盤」です。ここでいう論語とは道徳であり、算盤とは経済のことです。この時代、道徳と経済は対極にあるものとされていました。しかし、栄一は「そうではない。これらは両立させねばならないものである」と考え、本書を執筆しました。そこで、次のような言葉があります。

『社会のためとなる道徳に基づかなければ、本当の経済活動は長く続くものではない』

なるほど。栄一は道徳とは単体ではなく、その他の社会活動と結びつくものであると考えていたのですね。では、他の偉人は道徳についてどう考えていたのでしょうか。

【道徳性発達理論】

アメリカで道徳を研究した心理学者でローレンス・コールバーグという人物がいます。コールバーグは道徳性発達理論というものを提唱しました。コールバーグの理論によると、道徳とは3つのレベルと6つのステージに分けられるそうです。つまり、道徳とは発達していくものであるということです。では、どのように分けられるのしょうか。ざっくり説明していきます。

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◯レベル1
ステージ1「他律的道徳性」
これは、5歳前後の児童がもつ道徳です。大人が言うことが正しいと思い、判断します。これは、善悪の判断ではなく、怒られないのを基準に行動します。

ステージ2「個人主義的な道徳性」
8歳前後の児童がもつ道徳です。端的にいえば、自分が損をしたくないという心理です。例えば、「お手伝いをするのは、お小遣いがもらえるから」などがこれに該当します。

◯レベル2
ステージ3「優等生志向」
12歳前後の道徳です。この段階になると、他者から良い子であるという評価を受けたいという気持ちが生まれます。喧嘩で殴られても、殴り返さないという判断ができるようになります。

ステージ4「社会的責任」
10歳台後半がもつ道徳です。ここでは、規律を守る意味を理解できるようになります。例えば、万引き行為は店側が困り、社会全体の損失になると判断できるようになります。

◯レベル3
ステージ5「規律的良心」
これは青年期の発達です。規律は何のにためにあるのかを考え、人間尊重のためにあると考える段階です。ここでは、所属組織が間違っているときに指摘することができます。

ステージ6「普遍的な倫理原理」
最終段階です。青年期以降に訪れます。正義や公平を尊重し、平等・尊厳などの観点から法と道徳の区別をすることができる段階です。
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このことから、道徳とは段階があると言えます。そうですよね。私たちも年を重ねると、あのときは未熟だったと気付くことがあると思います。そしてコールバーグは最も高い道徳は正義であるとしています。
ここで、道徳とは何かという問いに戻りましょう。コールバーグの理論をもとにするならば、「道徳とは、正義を行うこと」であると言えるでしょう。

規範は私たちが秩序ある社会を安心して生きていくために守らなければならないものです。多くの場面において規範を守ることは正解となります。しかし、規範を守ることが不正解となる場面も存在します。だからこそ、その判断基準を正義に置くべきなのだとコールバーグは述べています。
みなさんはどう思いますか。私は賛同します。規律・規範・法は何のためにあるのでしょうか。それは人間を尊重するためです。法を守ることによって、人間を傷つけることはあってはならないのです。これはまさに「人能く道を弘む。道の人を弘むるに非ず」ではないでしょうか。

【定言命法】

では、より道徳の本質に迫るため、プロイセンの哲学者であるイマヌエル・カントの道徳論について考えてみます。
カントというと有名な三批判書が思い浮かびます。「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」の3つです。「実践理性批判」の中でカントは道徳について語っています。
例えば「友達を大切にする」「嘘をつかない」という道徳は、当然のことのように教わります。しかし、何故当然なのでしょうか。カントが生きた時代にはその答えは明確でした。「神さまの教えを守るため」です。カントはその考え方に反対します。そうではなく、人間が道徳を作るものだと主張しました。

具体的な事例で考えてみましょう。隣の学級の先生が仕事に追われている姿を想像してください。ここで手伝うことは道徳的な行動です。しかし、ここで手伝うことで、自分の評価が上がるだろうと考えてしまったとき、道徳的行動でなくなるとカントは言います。
つまり「見返りを求めての行動」は道徳ではありません。これをカントの道徳理論では「仮言命法」と言います。「もし◯◯なら、◯◯する」という考え方のことです。
では、どのような動機が道徳的行動なのでしょうか。それは「定言命法」と言います。「◯◯する」という考え方のことです。先ほどの事例に当てはめてみましょう。

仮言命法
「先生が困っている。もし助けたら、私の評価が上がるだろう。だから助けよう」

定言命法
「先生が困っている。だから助けよう」

たしかに、本当の道徳とは、定言命法に基づく行動であることに異論はありません。カントは次のように言います。

「命令でもなく、見返りを求めることもなく、ただそうあるべきだと自ら行うことが道徳的であり、人としてあるべき姿だ」

つまりカントは、道徳とは「人としてそうあるべきことをなすこと」と定義しているのですね。これは多くの人が賛同できるのではないでしょうか。

以上、論語から道徳の本質について考えてきました。このように物事の本質を明らかにしてくことが、学びを楽しく、豊かにしていくと思います。

「1%の教師」

私の師である野口芳宏氏に初めてお会いしたとき、言われたことを今も覚えています。

「休日に身銭を切って、学ぶ教師は、全体の1%しかいません。しかし、そこに教師としての楽しさ、醍醐味があります」

修養はすぐには役にたちません。明日の授業で使うことはできません。しかし、あなたが学習者ならば、修養をしている先生と、していない先生、どちらの授業を受けたいでしょうか。私も1%の教師になるべく、現在も学び続けている途中です。今回で、みなさんが少しでも学ぶことが楽しいと感じてくれたら、これほど嬉しいことはありません。

というわけで今回は修養をテーマにお話させていただきました。これで今期の私の連載は終了となります。私の連載が、少しでもみなさんのお役に立つことができていたら幸せです。ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。また、お会いしましょう。

山本 裕貴(やまもと ゆうき)

市原市立八幡小学校教諭 木更津技法研所属

高校、特別支援学校、小学校算数専科を経て、現在小学校の学級担任をしています。
人を幸せにするには、どうすれば良いのか。たどり着いた答えが小学校の先生でした。
教育の根本・本質・原点を問い続けていきます。

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