2021.02.16
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先生は悪魔の代弁者

学業優秀で、その児童が発言すると他の児童は「それが正解」と思ってしまうような児童っていませんか。特に塾で習ったからもう答えを知っているという場合。間違いではないし努力をしているのは事実なんだけど、本当の学びとしてはちょっと物足りない。だってその瞬間に他の児童は考えるのをやめてしまうし、その児童自身の学びもそこで止まってしまうから。

ユタ日本語補習校 小学部担任 笠井 縁

「できる子」ほど消化不良

私が先生として「やった!」と思った瞬間。それはそういう自他ともに認める「できる子」の一人であるAさんが「先生に何度もそう訊かれると、なんだか自信がなくなってきたなぁ」とポロリと言ったとき。自信喪失した訳ではないのです。もう一度、どうしてその答えになったのかを考え始めたのです。自分がわかっただけではなく、他の子に説明できるように。

また別のときにはBさんが私に、ちょっと不満気に言いました。「どうして合ってる答えを言う自分よりも、間違って答えを言った他の子の方が褒められるの?」

私は、単に教科書通りの正答を出してくれた時よりも「良い間違い」や「面白い考え方」に大きく反応してしまうようです。そんな私が他の先生の授業見学をしていると、時々「え~、そこが面白いのに」と思ってしまうことがあります。

例えば2年生の算数、かけ算

「1皿におすしが2つずつのっています。3皿ではおすしはいくつでしょう」

正答をすでに知っている児童が積極的に手を挙げます。でも、あえて違う子を指名した先生、さすが!
Cさんはちょっと考えて答えます。「2+3=6です」

「え~、違うよ~」という声が上がります。

先生は「残念!がんばったけど惜しいなぁ。じゃあ……」と正答率の高いDさんを指名し「正しい式と答えは2×3=6」と、授業は滞りなく進みました。
大きな問題はありません。ですが……。

私なら「『2+3=6』なんて面白い!なんでCさんは、こういう式になったんだろう」と、わき道にそれてみたいなぁと思いながら見ていました。

だってCさんは、おすしが全部で6つだという事はわかっているんです。2つずつ3枚のお皿というイメージもしっかり捉えている。ただ、かけ算という計算方法や式にまだ馴染みがないだけなんじゃないかな。「2つずつ3皿。全部で6つ」というかけ算の考え方はわかっている。ただ「×」という記号を使う技をまだ身につけていない……ような気がする。
一方、正解を100%の確信を持って答えたDさんにとっては既習事項でした。すでに家で練習して九九もすらすら言えます。

では、たし算とかけ算の違いは何だろう。「だって今までの勉強で『全部で』とか『合わせて』の時はたし算って学習したよね」と、私ならCさんの味方についてしまうかも。ここを児童同士に話し合わせて「『2×3』と『2+2+2』は同じ!」「あれ、たし算の方は2を3回足してるね」というところまで、みんなでたどり着けたら最高だなぁ……と私の妄想は広がります。

そこが算数の面白さじゃないかな。計算が早くできることや公式などをたくさん知っている事は確かに立派な知識と技術です。が、それと「算数的思考」が身についているかどうかは、また別の話だと思っています。

日本語補習校は4月始まり、現地校は9月始まりなので、誕生日が春夏の児童は現地校授業での既習事項を補習校が後追いすることが多いのです(特に算数)。では「できる子」は先生が別に用意した追加の練習問題を各自で解き、その間に「まだできない子」を先生がフォローする……そんな分断された教室ってどうなんでしょう。既習事項に違いはあっても、みんなで一つの課題に取り組み学び合うことはできないものでしょうか。

答えを知っている(つもりの)落とし穴

だから私は「できる子」を揺さぶり「まだできない子」の発言をワクワクしながら取り上げます。

正答を知っている児童の正しい答えに「正解!」とすぐ言わないので、最初に登場したAさんのように「待てよ」と考え直す児童が出てきます。そしてBさんのように「なんだかちょっとずるい」と感じることもあるかもしれません。でもAさんやBさんのような子には特に、正答をパッと出せるだけがいい事だと思ってほしくないという願いもあります。こういう児童は、時に先生と自分(もしくは自分が正答すること)しか目に入らない場合もあり、他の子のがんばりや別の角度から見た新しい発想などに不寛容な傾向もなくはありません。「2+3=6」は間違い。それで終わってしまっていいのでしょうか。

事実、Aさんは他の児童が音読していて読めない漢字で詰まると、考える間を与えずに即座に読み方を言ってしまったり、算数でも他の子の発言を待てずに、当てられていないのに答えを言ってしまうようなことが度々ありました。
しかし自分の答えやそこへ至る過程を問い直すようになってから、それも徐々になくなっていったのです。

授業の話からは少しそれますが、SNSの普及と共に「正しいか否か」だけで他者や世の中の出来事を一面的、短絡的、独善的に見て、すぐに批判をする傾向は悲しいものだなと感じています。学校という場でも、物事を多面的に見たり相手の立場に立ってみたり、自分の意見も持ちながら他者の意見に耳を傾けるという経験や練習をぜひ積んでほしい。そして、それは休み時間や道徳の時間だけに限られるものではないですよね。国語でも算数でも、何の教科でも学びの実践の場になりうると思うのです。

問い続ける悪魔

さて、何故か今回も英語のフレーズが浮かんでしまったのですが、こういうふうにわざと異論を唱える人の事を”devil’s advocate(悪魔の代弁者)”と言います。自分は優秀という自負がある児童にとって、私はまさに悪魔かもしれません。

特に「そうかな?本当に?」と先生が問い戻すと「だってそうだから」「普通にそうでしょ」という答えが返ってくる場合。私の中の悪魔がムクムクと動き出します。「それはどうして?説明してみて?」と、心の中でペロッと舌を出し、涼しい顔で児童を揺さぶりにかかるのです。

笠井 縁(かさい ゆかり)

ユタ日本語補習校 小学部担任


アメリカの小さな補習校で多文化の中で成長する子どもたちと一緒に学んでいます。アメリカの現地小学校でも非常勤で子どもたちと接し、日本との違いに驚くこともありますが、子どもたちの学びの過程には共通する部分も多いのではないかと思っています。

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