2021.01.26
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たまには生徒の靴を履いてみる?

「学校の先生」と聞いてパッと浮かぶのはどんなイメージですか。「お医者さん」とか「サッカー選手」のように一般的な人物像です。先生と呼ばれる今、自分はどれ位そのイメージに近いでしょうか。

ユタ日本語補習校 小学部担任 笠井 縁

アメリカの「先生像」

様々な人種や文化が共存するアメリカだからこその「先生像」があります。

「中所得家庭に育った白人女性」。これは特に小学校の先生に多いイメージです。時代とともに変化はしていますが、まだこのイメージと現実はそうかけ離れてはいません。

アメリカの大学費用は高い!ので、大学に進むためにはそれなりの経済状況が整っている必要があります。人種に関しては移民の歴史が長くなるにつれ変わりつつありますが、それでも大学に進めるほどの経済力を持つのはマイノリティ(主に移民の少数民族)よりもマジョリティ=白人がまだまだ多いのが現実です。

また女性が多いのは、一家の大黒柱の収入としてはちょっと頼りない…という側面もあるようです。そこでもう一つ踏み込むと「既婚女性」という要素が加わります(または「大学卒業したて」。残念なことに、教員の新卒採用後5年以内の離職率は高いのです)。

非優等生と先生のステレオタイプ

外的要素の次に、内的な資質や性格的な人物像はどうでしょうか。

少し話がそれますが、私が現地の小学校で出会った児童で、成績はいいとは言えず社会性や精神面にもまだ未成熟な面があり、気分にムラのある児童がいました。しかしこの児童Aさんは、ペア活動をさせると相手の児童の力をうまく引き出すのです。非英語圏から転校してきたばかりのBさんと組んだ時のこと。他の児童は英語が話せないBさんが英文を読むのに詰まるとすぐに教えたり小さな間違いを正します。でもAさんは「待つことができる」のです(Aさん自身は移民ではなく第二言語も話しません)。Bさんが自分でできることを探るようなその絶妙な間に感心し、思わずAさんに「それってすごいことだよ。いい先生になれると思うよ」と声をかけるとAさんはびっくりしていました。優等生ではない自分が?とでも問うように。Aさんは本当に自然にそういう関わり方ができる子で、自分でもそれが特別なことだと気づいていなかったようです。

ここで先生になりやすい人物像に話を戻します。「中所得家庭に育った白人女性」というのは、実はアメリカの教育学の教科書に登場したステレオタイプです。前述の通り実際のアメリカの先生にはこれに近い人が多いのですが、現場で出会う児童たちは違う環境で育っている場合も多い。だから自分の価値観だけで児童を見るのではなく、広い視野を持って児童と接しましょうというのがその要旨でした。また学校という枠組みの中でうまくやっていける優等生タイプが、やはり教職を選びがちだとも。学校嫌いが先生になるにはかなりの転換を要するというのは想像に難くはありません。だからキツイ言い方をすれば独善的にならないようにとこの授業の中で繰り返されました。「このステレオタイプに当てはまる要素が多ければ多いほど気をつけなければならない」と。

やらない子

私自身は、勉強は苦手ではなかったけど「やらない子」でした。中学以降は特に、興味の持てないものにはやる気も見せずむしろ反抗心や自己主張の方が顕著で先生方は手を焼いていた…と当時の同級生には未だにからかわれます。

そんな私が何故か今「先生」と呼ばれているわけですが、指導案を考える時の出発点は「勉強はつまらないものだと思っている子が、興味を持てるか、楽しめるか」です。やらない子だった当時の自分がどんな授業だったら興味を持てたか。全て興味津々とはいかないまでも少なくとも参加するとしたらどんな授業かと(子どもは興味が持てなければやらないだけで、できない子というのはいないと思っています)。

「ちゃんとする」って?

「はだいろ」は存在しないアメリカ

アメリカでは人種や文化が違う場合も多いので初めから共通認識は期待できません。例えば「ちゃんとする」の意味するところは千差万別です。クラス全員がカーペットの上に寝転がって先生の話を聞いているのを初めて見た時はびっくりしました。これでも「ちゃんとしている」のです。ですから何であれ「言わなくても分かるよね」という期待はできません。そんな多様性文化においても「相手(児童)が自分とは違う考え方、感じ方をしている可能性があるから、一度相手の立場になって考えてみよう」と意識しなければ大人でも先生でも忘れてしまうようです。

日本ではどうでしょうか。「学校ではこうするもの」が当たり前ではなく「どうしてそうしなければならないのか」と子どもたちが問える余地が残されていることを願います。日本の(またはアメリカの)教育を改革したいわけでもなくそれぞれに良いところがあると思っています。だからこそ「どうして」が分かって行動するのも大切だと思うのです。

素直で模範的な生き方をつまらないと批判したいのでは決してありません。ただ、もしも先生が「いろんなことを試したけど、どうしてこの児童には私の気持ちが伝わらないのだろう」と感じることがあったら、視点を「やりたくない子」の目線に合わせてみたら何かヒントが見つかるかもしれないと思うのです。特に先生自身が「やりたくなくても言われたらやる子」だったとしたら…。

英語ではこれを “put yourself in someone else’s shoes” と言います。教育分野だけではなく一般的に使われる表現です。先生と呼ばれるようになった今も、私はこの勉強嫌いの幼い自分が履いていた靴の感触を忘れないようにしようと思っています。

笠井 縁(かさい ゆかり)

ユタ日本語補習校 小学部担任


アメリカの小さな補習校で多文化の中で成長する子どもたちと一緒に学んでいます。アメリカの現地小学校でも非常勤で子どもたちと接し、日本との違いに驚くこともありますが、子どもたちの学びの過程には共通する部分も多いのではないかと思っています。

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