2023.03.15
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新しい日本へのあゆみ「給食の歴史を考えよう」 【食と歴史】[小学校6年・社会]

食育は家庭科や総合的な学習の時間だけが受け持つものではありません。理科、社会科などどの教科でもアイデア次第で楽しく展開できます。教材開発のノウハウや子ども達の興味・関心を高めながら、望ましい食生活習慣を育てていく授業作りのヒントを、武庫川女子大学・藤本勇二先生主宰、食で授業をつくる会「食育実践研究会」がご紹介します。第194回目の単元は『新しい日本へのあゆみ「給食の歴史を考えよう」』です。

授業情報

テーマ:食と歴史
教科:社会
学年:小学校6年

普段、何気なく食べている学校給食ですが、日本各地で栄養教諭の方々を中心に栄養バランスを考えた献立が毎日作られていると思います。私たち兵庫県丹波篠山市の学校給食も、季節に合わせたメニューやお誕生日献立、日本や世界各地の味めぐりで豊かな食を提供するだけでなく、地元のお米や野菜・特産物を使った「ふるさと献立」も実施し、地産地消の大切さや食農を通じて地域の活性化にも取り組んでいます。

丹波篠山市立城南小学校の6年生に給食についてアンケートをとった結果、給食は「すごく好き」「まあまあ好き」と答えた児童は32名中22名(68.8%)。その理由は、「いろんな献立でおいしいから」「栄養バランスがとれた献立が出てくる」などの回答がありました。しかしながら、子どもたちの多くは給食を食べるだけでその良さや素晴らしさについて考える機会はあまりありません。児童にとって、給食は「食」について一番身近で共通の話題となるので、興味・関心を持って主体的に学ぶことができると考えました。あわせて多くの子どもたちは給食の歴史的背景についての知識がないので、そこに焦点を当てることで新たな視点で給食について学ぶことができると考え、以下のような授業を行いました。

今日の給食を振り返り、給食についてどう思っているかを聞く

授業の最初は、ついさっき食べた給食のメニューを思い出すところから始めました。

「今日の給食のメニューは何でしたか?」という問いに、子どもたちは発表の度に「あっ、そうそう」「思い出した」と口々に言っていました。

続いて、毎日食べている給食についてどう感じているかを聞きました。「いろんなメニューが食べられるから好きです」などの発表が多く出ました。

戦後の日本の様子と学校給食が再開した経緯について学ぶ

前の社会の時間、戦後の日本の様子について学習していたので、「青空教室をしていた」「焼け野原になっていた」「食べ物が不足していた」ことを確認した後、焦点を学校給食に絞っていきました。そのような大変な状況の中でどのように学校給食が再開したのかを子どもたちに分かりやすく説明するための手立てとして、埼玉県にある日本で唯一の「学校給食歴史館」(公益財団法人埼玉県学校給食会)の吉田昭夫館長とZoomでつなぎ、以下のような内容でお話しいただきました。

「第2次世界大戦後、敗戦した日本はアメリカの管理下に置かれていました。アメリカは『戦争で気の毒な生活をしている日本の子どもたちのために、なんとか学校で1食提供してあげたい』と思い、ボランティア団体からの支援物資などにより、昭和25年東京や神戸など8つの大都市で『パン・ミルク(脱脂粉乳)・おかず』給食が再開されたのです」

丹波篠山市では昭和32年、城南小学校では昭和35年から学校給食が再開されたことを担任から説明しました。

給食再開直後のメニューと今日食べたメニューを比べて考える

めあて「昔と今の学校給食を比べて、その違いを見つけよう」を全体で確認した後、黒板に貼られた2つの給食の写真を見て分かったことや気がついたことをノートにまとめました。

個人で考えた後、隣同士で意見を交流し、考えを広げてからクラス全体で発表しました。
「今の給食にはデザートがある」「昔の給食はパンが大きい」「おかずの種類が少ない」「昔、ミルク(脱脂粉乳)は紙パックではなく、お椀に入っている」などの意見が出ましたが、その中で特に疑問に思った点が2つありました。

昔と今の学校給食を比べて疑問に思ったことを考え、学びを深める

1つ目は「なぜ牛乳ではなく、脱脂粉乳だったのか?」ということです。
ほとんどの子どもたちが脱脂粉乳について見たり実際に飲んだりしたことがありませんでした。
そこで、吉田館長に質問し、「脱脂粉乳とは牛乳の脂肪分をのぞいたものから水分をなくして粉末状にしたもので、今では『スキムミルク』という名前で売っています。牛乳のように冷やす必要がなく、粉なので保存がしやすかったのです」と、詳しく説明していただきました。

2つ目は「なぜご飯給食ではなく、パン食だったのか?」ということです。丹波篠山市の学校給食の変遷が分かる映像で確認したところ、昭和50年まで毎日パン給食だったのです(昭和51年から月に1回のご飯給食が始まり、少しずつご飯給食の回数が増え、現在ご飯給食は週に4回、パン給食は週に1回となっています)。
子どもたちは「ご飯の給食が週4回なのは当たり前」と思っていたようで、大変驚いていました。そして、「何かおかしいと思ったことはありませんか」と問いかけ、窓の外を見るように言いました。なぜなら、丹波篠山市は豊かな自然に囲まれ学校の周りにもたくさんの田んぼが広がっています。しかし、パンの原料となる小麦を育てている所はひとつもありません。児童は隣同士で相談し、仮説を立てて吉田館長に意見を伝えました。

吉田館長は「なぜパン食だったかというと、先ほども述べたとおり当時の日本では給食に出せるほどの大量のお米を手に入れることは困難でした。代わりに比較的安い小麦粉をアメリカから供給してもらえることができました。パンは加工がしやすく、取り扱いや流通もしやすいので、学校給食に取り入れられたのだと思います」と答えを言っていただきました。
子どもたちは、長くパン給食が続いてきた理由を真剣に聞いていました。

給食を作る人々の願いを考える

子どもたちは、昔と今の給食の写真からさまざまな違いがあることに気づき、学ぶことができました。授業のまとめとして「どの時代にも給食を作ってくれる人がいますが、昔はどんな願いで給食を作っていたのでしょうか。また今はどんな願いで給食を作っているのでしょうか」と問いました。

子どもたちはノートに自分の言葉でまとめ、発表しました。子どもたちの発表からは、昔の給食は「命をつなぐため、お腹が減って困らないようにするため」、今の給食は「いろいろな栄養をとるためだけでなく、おいしくいいものを食べてもらうため、楽しくおいしく食べるため」といった意見が出され、違いを理解することができました。
そして、『将来を担う子どもたちのため』という作る人の思いや願いは変わっていないことにも気づくことができました。

給食歴史館の館長からのお話と授業の感想

授業の最後に、吉田館長から「日本の学校給食は季節のメニューや行事食、地産地消、世界のメニューなど様々な工夫を凝らしている、世界に誇る素晴らしいものです。毎日の学校給食をおいしく、楽しく食べてください」とお話ししていただきました。

☆授業の感想

・給食は毎日当たり前のように食べていたけど、今でも昔の日本のように食べ物がない国もあるかもしれないから、給食を作ってくれる人たちに感謝して残さず食べたいなと思いました。

・戦後の日本は、食べ物が少なくてすごい大変だったんだなと思いました。今は栄養もあるし、おいしい給食で幸せだと思いました。作ってくれている人に感謝したいです。 

・給食のはじまりのことや作っている人の願いを考えて学ぶことができました。丹波篠山の給食は、とてもすごいことが分かりました。

授業の展開例

〇自分たちの地域の学校給食がどのように始まり、歩んできたかを調べてみましょう。

山上 徳義(やまがみ のりよし)

丹波篠山市立城南小学校 教諭
食育の専門家と連携し、子どもたちの興味・関心を高めることで、給食への感謝の気持ちを持ち、「おいしく楽しく」食べることができるような授業をめざして教材研究に取り組んでいます。

藤本勇二(ふじもと ゆうじ)

武庫川女子大学教育学部 准教授。小学校教諭として地域の人に学ぶ食育を実践。文部科学省「食に関する指導の手引き」作成委員、「今後の学校における食育の在り方に関する有識者会議」委員。「食と農の応援団」団員。環境カウンセラー(環境省)。2010年4月より武庫川女子大学文学部教育学科専任講師。主な著書は『学びを深める 食育ハンドブック』(学研)、『ワークショップでつくる-食の授業アイデア集-』(全国学校給食協会)など。問題解決とワークショップをもとにした食育の実践研究に取り組む「食育実践研究会」代表。'12年4月より本コーナーにて実践事例を研究会のメンバーが順次提案する。

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