2013.04.30
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【先生たちの復興支援】NPO法人TISEC理事 荒畑美貴子さん(第1回) 「ふるさとのない悲しみを背負って」

今回は、NPO法人TISEC理事であり、東京都の小学校教諭 荒畑美貴子さんの授業実践です。

早いもので、あの震災から2年が過ぎました。

私の母は、ガンで寝たきりの生活をしていて被災し、一人きりで真っ暗な中を7時間も過ごしました。まだ寒い福島で、布団にくるまっていたとはいえ、暖房の消えたところで過ごすのは大変だったろうと思います。

そして、私たち家族は母の死を覚悟していたものの、震災さえなければもっと長生きしてくれたかもしれないと悔やみました。

母が亡くなって2回目となる昨年夏、私は母の盆供養のために福島に帰りました。久しぶりに実家に着くと、辺りの様子が一変していました。家がなくなっているのではないかと錯覚し、恐怖心で足がすくみました。

家の周囲の樹木は、主のいない家を覆いつくしていたのです。隣には大きなアパートが建てられ、実家が取り壊されたのではないかと思わせるような光景でした。家の中も荒れ、泊まるところがあるのだろうかと不安になりました。これが私の育った家だと思うと、涙がこぼれました。

この帰省のあと、私は実家に帰ることができなくなりました。家が荒れ果てた切なさ、両親が亡くなった寂しさで、ふるさとをなくしてしまったように感じているからです。両親が健在のときには、帰りたくて、帰りたくて仕方がなかった福島。吾妻連峰から安達太良連峰が連なる山々は、私にとってかけがえのない景色でした。でも、そういった思い出すら、今は灰色になってしまったように思います。

病気を患い、精一杯介護をしてきた母を失ってすら、深い悲しみを背負っています。まして、あの震災で一瞬のうちに家族を亡くされた方、家を失った方の思いは、いかばかりかと推察します。それに加えて、福島第一原発の事故による、放射能の恐怖を抱えて生活している同胞の気持ちを察すると、かける言葉もありません。

このように悲しみに浸っていたある日、私はある本と出会いました。たまたま本屋さんで平積みになっていたものを、手に取ったのです。私はその本を夢中になって読みました。そして、きっと母も、多くの近所の方に支えられて生き抜いたことを、幸せに思っていたのだろうと考えることができ、心が落ち着きました。

まだ、帰省できるような心境にはありませんが、前向きに生きていこうと思っています。生を受けたこと、両親に愛情を注いで育ててもらったこと、元気に仕事を続けながら生活していること。そんな当たり前のことに感謝し、一日一日を楽しく充実したものにしていこうと思います。幸せな人生を生き抜くことが、両親への一番の供養になるのではないかと思うからです。

さて、私はこの4月から、3年生の担任になりました。わんぱく盛りの子どもたちは、休み時間になると校庭で思い切り遊んでいます。このところの気温の高さも相まって、汗だくで教室に戻ってきます。

ある日、子どもたちが口々に、「先生、クーラーつけて、暑いよ」「扇風機つけて」と言い始めました。私はびっくりしました。気温が高いと言っても、まだ4月です。クーラーや扇風機をつけるまでもありません。暑いことは理解できますが、窓を開けるとか、上着を脱ぐとか、涼しくする方法はいくらでもあるのです。

それで、震災のことや原発の事故の話を、3年生にわかる範囲で教えました。彼らは、震災の日には、まだ幼稚園や保育園に通っていた年齢だったので、どのような被害があったのかを詳しく知らなかったからです。子どもたちは、私の話を真剣に聞いてくれました。そして、「電気を大事に使おうね」という私の提案に、うなずいていました。

私は、教師という仕事を通じて、子どもたちに震災を伝えていくという役割も負っていると思っています。自分自身が前向きに生きるとともに、震災の記憶を風化させないためにも、折を見ながら伝える仕事を続けていきたいと思います。そして、一日も早い復興のために、できる限りの協力をしていこうと思います。

文:荒畑美貴子

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