2012.02.09
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郡山市立大島小学校 教諭 小野 浩司 「人は何を食べて大きくなるの?」

第二十六回は、福島県の郡山市立大島小学校 教諭 小野 浩司さんの執筆です。

人は社会的な生き物と言われます。
生物学的には、ご飯や肉、野菜などを食べ物にしています。
では、社会的な生き物とすれば、何を食べ物にすればいいのでしょうか。

その答えを見つける一つの切り口に、人の認識のし方があると思います。

人は、人それぞれ認識のし方が違っています。
ものごとを写真のようにビジュアルに認識するのが得意な人もいますし、筋道を立てて理論的に認識しようとする人もいます。すぐにわかった! という人もいますし、じっくり自分が納得いくまで繰り返し確認する人もいます。何をするときも、目的さえ知りさえすればいいという人もいますし、その理由を知りたい人もいます。手順を聞きたがる人もいます。
例えば、ぼくが「赤い色をイメージしてください」と言っても、みなさんは、夕陽の色だったり、絵の具の色だったり、今日着ているコートの色だったり、ご自身の経験から様々な赤の色をイメージすることでしょう。そう、だれもがそれぞれの赤のイメージを思い浮かべるのです。イメージ一つにしても、多様に違うのです。
人は主観ですべてのものごとを認識するのだと言っていいのかもしれません。図工・美術は主観の教科で、客観性がないと言う方もいますが、何であれ、人は自分自身のフィルターを通して自分の脳に入ることしか理解できないのです。

学校へは子どもたちは「勉強」しに来ます。学校はそういう場所だからです。
そして学校の中には“授業”の型というものがあって、それをとりあえずやっていれば、それっぽくやれてしまうところがあります。それはそれで子どもたちや保護者、教師の中で暗黙の前提になっているのですが、それでは、すべての子に応じているかというと、必ずしもそうではないところがあります。

それに気づかせてくれたエピソードがありました。
これまで、ショッピングセンターや公民館、美術館などでワークショップの講師をした経験があります。
ショッピングセンターのちょっと広いスペースがあって、月に1度、土曜の午後、クリスマスリースだったり、松ぼっくりでオブジェを作ったりする活動を1時間前後くらいで作るというものです。 ショッピングセンターでは、たまたま買い物に来た、たまたま親に連れられてきたというのがほとんどの理由で、選択的に会場に来る子はとても少ない割合です。中には、親が買い物をする間託児所がわりで預けようというケースもよくありました。

ぼく自身に対しても「先生」ではなく、なんか図工教室みたいな所にいるおじちゃん(-_-;)…という認識です。そのような子たちとラポール(信頼関係)を取り結びながら、ワークショップを成功させていかなくてはいけません。図工が嫌い、苦手といういやいや参加してきた子にでも、ぼく自身とのラポールだけでなく、教材とのラポールも取り結び、そこそこの形にしていき、うまくいったと本人に実感させ、保護者にもすてきなものができたじゃないと思ってもらえるようなものを作っていかなくてはいけません。
そのためには、だれもがやれそうと思えるハードルの低さ、やってみよう! と思えるおもしろさ、あれこれ工夫をすることのできる奥深さ、この3つがとても大切だと、子どもたちに教えてもらいました。この3つが題材(授業のテーマや材料のこと)に含まれていれば、教師はほんのちょっと子どもと題材を橋渡しさえすれば、あとはどんどん子どもたちがやっていくようになります。図工は嫌い! とさっきまで宣言していた子もです。
図工は嫌い! と言う子は、頭の中の記憶に、ものを作ることで何かいやな経験があったのでしょう。もの作りを否定することで自我を守ろうと「図工は嫌い」と言っていたのかもしれません。 それでも、やさしく言葉をかけてもらいながら、自分が思ったとおりに手を動かし、それに応じてものができていくことはとても楽しく、どんどん没頭していくことになってしまいます。

心は身体のどこにあるのかぼくには分かりません。それでも、子どもたちの表情や姿から推し量ることは可能です。
たとえば、没頭するには、大きな心のエネルギーが必要です。ひいては、没頭してしまうということは、心のエネルギーがたくさん出ていることがわかります。心の中はわかるはずもありませんが、没頭している姿を見れば、心のエネルギーがたくさん出ていて、その活動がその子にとって肯定的なものと認識している/受け止めていることが見て取ることができます。
それに、誰かに「下手ね」などと悪口を言われたり評価をされたりすることが気になっては、没頭することはできません。安心して、自分は認められていると感じられる環境でのみ、没頭できるのだと思います。

誰からも何からも害されない安心できる環境で、やってみたいことをやりたいだけやる…それが没頭する姿なのだと思います。そして、その行為を、作ったものを認められることで、さらに「自分はいいことをしたんだ」ひいては「自分自身はいい存在なんだ」という自己肯定感または自己重要感と言われるものを満たしていくことができます。

ある人は、それをコップに例えます。承認のコップです。
人によって、そのコップの形も大きさも入るものも違うようです。なので、他の人に満たしてもらうことはできません。他の人が承認したとしても、その承認を自分のフィルターを通して、自分のコップに自分で注ぎ込まなくてはいけません。教師は、子どもたちは多様なフィルターをもって、多様な感じ方をするということを認識して、子どもが自分の承認のコップを満たしやすいような形で承認していく必要があります。
子どもも敏感です。ただ大人が「上手だね」「よかった」と上の空で言っても「あぁ、本当にぼくに向かっていってくれたのではない」とすぐに感じ取ってしまいます。なので、具体的に、タイムリーに、その子がどのような承認をほしがっているのかを感じ取ることがとても必要になってきます。
承認のコップに入っている水の量が少ないと、他の人にやさしくすることはできません。自分の承認のコップがある程度満たされてはじめて、他の人にやさしくできるのです。

震災があって、もうすぐ11ヶ月。
先の見えない中、手探りの実践を重ねてきました。
心のケアと言われていますが、具体的には何をどうしていいか模索の毎日でした。
アートには癒しの効果があると言われます。具体的にはどうしたら癒せるのか、一つのテーマのようにずっと考えてきました。
その中でまだぼんやりとですが、先に書いたように「安心して没頭できる図工は心を癒す」のではないか、今まで教師たちがやってきた当たり前のことかもしれませんが、このような考えに至りました。
それ以来、毎日の授業の中で「安心して没頭できる図工は心を癒す」はできただろうか、子どもたちの心に届いただろうかと自らに問うようになっていきました。
すぐには見えない、答えの出ない問いですがが、少しずつですが、一人一人の個の自己重要感をしっかりと満たすこと、一人一人が更なる高みに挑もうとすること、一人一人ががんばった自分を認識し、認め、充足感が得られること、そんなことの積み重ねをさらに考えていかなくては…と思っています。
3学期は、一コマずつマンガを描いてリレーしていく「連画」、水墨画、教科書題材の「あかりたちのゆめ」と実践を重ねています。子どもたちの活動、表情を見ながら「安心して没頭しているか」一人一人確認している自分がいます。

実は、先日、岩手県奥州市の図工の研究会で先生を対象にお話をさせていただく機会を得ました。
どのようにオリジナルな授業をつくっているのか、そして授業の中でどのようにコミュニケーションの活性化を図っているのかが主な内容でした。
その時にもう少し詳しくお話したかったことのうちの一つが、このことでした。
本来なら、その先生方だけにお知らせすればいいものなのかもしれませんが、少しでも多くの方に知ってほしいと思い、ここに書かせていただきました。

一番はじめの問い、
社会的な生き物とすれば、何を食べ物にすればいいのでしょうか。
の答え、
ぼくは、
「承認」だと思います。
人は、「承認」を食べて、社会的に成長していけるのだと思います。
みなさんは、いかがお考えになるでしょうか。

平成24年2月3日

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