身体的自由をすべて奪われた男の実話
つい最近もハリウッド・スターのブラッド・レンフロやヒース・レジャーが、まだ20代の若さで相次いで亡くなるという出来事が起きた。まさかこんなに早く逝ってしまうなんて、一体、誰が想像しただろう。当の本人たちだって予想していなかったに違いない。
つくづく「一寸先は闇」。だからこそ人生は面白いとも言えるのだが、どんな過酷な運命が自分を待ち受けているともかぎらない……。
『潜水服は蝶の夢を見る』も、まさにそんな予測不可能な事態に陥った男の姿を描いた物語だ。主人公は人気雑誌・ELLEの編集長としてバリバリ働き、浮気なども適度に楽しみながら人生を謳歌していたジャン=ドミニク・ホビー。そんな彼を襲ったのは脳梗塞。彼が42歳の時だった。どうにか一命はとりとめられたが、彼を待っていたのはまさに“生き地獄”。なんと彼は、意識は元気な時と全く変わらないのに、身体的自由をすべて奪われた「ロックインシンドローム(閉じこめ症候群)」になっていたのである。
このロックインシンドロームとは脳幹の神経節が機能を喪失したために、全身の骨格筋が麻痺してしまうというもの。脳梗塞の中でも最も重度と言われる非常に珍しい症例だ。
ジャン=ドミニクの場合、唯一動いたのは左目の眼球とまぶただけ。最初は完全に絶望し、「死んだほうがマシ」とまで思ってしまう。しかし残された左目だけでコミュニケーションを取る方法を覚えた彼は、懸命に生き、自分のこの状態を本に綴りたいと言い出す。
そうなのだ。この映画はそんなジャン=ドミニク・ホビーが実際に体験している出来事が描かれているのである。そう、これはすべて実話なのだ。実話であるからこその重さはもちろんあるのだが、素晴らしいのは決してお涙頂戴的な展開をしていないところ。普通はこの手の話となると、ジャン=ドミニクを支える人達に焦点がいきがちだが、本作はあくまでもジャン=ドミニクの心情に寄り添っていく。そこがすごいところである。
死を願うほどの生き地獄をリアルに描く
特に驚かされるのはその演出。まず映し出されるのは、意識を取り戻した彼が見る景色だ。脳梗塞でしばし意識不明だった彼の見る光景はかなりボンヤリとしたもの。そこにジャン=ドミニクの心の内の声がナレーションのように被さっていく。彼自身は喋っているつもりなのだが、すでにロックインシンドローム状態なので、声は一切、病室を訪れる医者や看護師には届かない。
しかも彼は身体を動かせないから、眼球を目一杯動かしても、見える範囲は限られている。映画は最初、彼の視点のみで物語を紡いでいくため、なんとも気味悪い映像となる。なんだかやけに人の顏がアップになったり(ジャン=ドミニクを皆が覗きこんだりするからだ)、平気でその画面から人が外れる。目が追いつけずに焦点が妙にぶれたりするし、時には相対している人の首から上が見えない画像がずっと続いたりする。
でも本作は通常の映画ならば避けて見せない、そういう辛い描写もキッチリと見せていく。だから映画だと頭の中ではわかっていても、観る者は次第に彼と同じ状況に置かれた気分になっていく。なにしろ見える世界は、彼が残された片目で見ていく世界だ。まして映画館のようなスクリーン以外どこも見えない暗闇の中で観れば、余計にジャン=ドミニクの心境に入り込んでしまうことは確実だろう。
当然のことながら、筆者も「もし自分がこういう状態になったらどうするだろう?」と考えてしまった。死ぬ自由すらなく、まるでさなぎのように固くなってしまった身体の中で生きていかねばならない日々。私は自殺を肯定しない考えだが、さすがに自分がこの状況に陥ったら、ジャン=ドミニクのように死にたいと思わずにいられるか……? 正直、自信はない。こんな生き地獄に遭うくらいならば、“死”によって解放してほしいと願ってしまうかもしれない。自殺を否定できないほど苛酷な状況、皆さんは想像できるだろうか?
外界との繋がりが再生へのきっかけに
けれども人間というのは本当に強いものだ。ジャン=ドミニクも確かに最初は死ぬことを考えるほど落ち込んだけれど、次第に再生していく。
なぜか?
それはその残された左目だけで行えるコミュニケーション方法を編み出すことができたからだ。まず始めは、YESとNOをまばたきの回数で判別するところから始まり、今度はアルファベットを読んでもらい、言いたい文字のところでまばたきをすることで文字が綴れるようになっていく。さきほど実話と言ったが、この映画の原作となる本はそうやって1文字ずつ書き取って作られたものなのだ。この本の執筆が彼にとっての生き甲斐となっていくのである。
面白いのはここからの演出。それまではずっとジャン=ドミニクからの視点だけで映画は構成されてきたが、彼が他者とコミュニケーションを取れるようになってくると、ジャン=ドミニクを客観的に見た映像が入るようになる。それにより観る側の気持ちは解放されていく。それこそ氷が解けるようにジワッと緊張感がほぐれていく。この演出は実にうまい! 観客の気持ちは完全にジャン=ドミニクに添ってしまうからだ。普通は怖くてこんな演出はなかなかできないもの。それをやりきってしまうところがすごい。なるほど、本作がカンヌ映画祭などで注目され、さらにはアカデミー賞でもさまざまな部門にノミネートされているのもよくわかる
外界と繋がりができただけで、こんなにも人間の気持ちは大きく変わるものか。死ぬことよりも、この動かぬ身体でいかに楽しく暮らせるか、そこを追求できるようになるのである。人間にとって他者との触れ合いがいかに大事かを本当に痛感させられる。人はひとりでは生きていけないのだということを、まざまざと感じてしまう。
コミュニケーションを取れるようになってから、彼の見ている世界は一変する。愛する子どもたちに触れることはできなくても見る楽しみを発見し、動かぬ自分のことをネタにしてキツいジョークを言う電話工事人たちを、ユーモアのあるヤツと平気で笑い飛ばせるようになる。テレビでサッカーの試合を見ながら熱くなったり(看護師にテレビを勝手に消されてイラつく気分は手に取るように伝わってくる)、浮気相手からの電話をちゃっかりと妻に取りつがせたりもする。前向きに生きていくその姿勢には、ユーモアとともに感動すら覚える。
人間の想像力はかくも偉大なものか
ジャン=ドミニクも前向きな生き方に変わってからは、様々に想像することで、人生をより楽しむようになる。最初の頃の彼は、重たい潜水服を着て海中をどんどん沈んでいくようなイメージしか抱けなかった。しかし彼は自分のイマジネーションで、それこそサナギから蝶が抜け出るように、スルリとどこへでも飛んでいけるようになる。想像の世界で彼は愛する人と自由に語らい、自在に愛しあう。何ものからも抑制されないその想像力は、とてつもない幸福を彼にもたらしていく。その様子がまた観ている我々の胸を打つ。なるほど人間のイマジネーションはかくも偉大なものかと思えるからだ。
そういえばナチスに捕らえられ収容所生活を強いられたユダヤ人家族の父親が、想像力だけで幼い息子に収容所生活をまるで遊びのように思わせてしまう『ライフ・イズ・ビューティフル』という映画もあった。あれもどう人生を捕らえるかで、どんな境遇でも楽しく生きていけることが描かれていた。
人間にとってどう思うかが大切なのだ。人生は一寸先は闇なのだから、後悔しないように精一杯生きて、そして万が一トラブルが起こっても悲観的にとらえるのではなく、それをプラスにどう転化させていくかで、人生は大きく変わっていくのだと本作を観て感じた。たとえひどいイジメに遭おうとも、もう二度と学校になんか行きたくないと思っても、それをどうとらえ、どう考えるかで人生は大きく変わる。
安易に“死”を選ぶ若者が増えているが、気の持ち方で人間はどんな逆境にも耐えることができると彼らに伝えたい。それを自らの体験を持って教えてくれたジャン=ドミニクに、我々は感謝すべきだろう。とにかく生きていくことに勇気を与えてくれる、本当に素晴らしい作品だ。
- Movie Data
- 監督:ジュリアン・シュナーベル
原作:ジャン=ドミニク・ホビー
脚本:ロナルド・ハーウッド
出演:マチュー・アマルリック、エマニュエル・セニエ、マリー=ジョゼ・クローズ、マックス・フォン・シドーほか
(c)Pathe Renn Production-France 3
- Story
- ジャン=ドミニク・ホビーが目覚めると、そこは病室だった。次第に自分が脳梗塞で倒れて運び込まれたことを思い出していくが、言葉が通じなければ、身体全体も動かない。唯一、動くのは左眼のまぶたと眼球だけ。そのまぶたを使ってコミュニケートできる方法があると知った彼は、必死にその方法を覚えて自伝を書き出す……。
構成・文:横森文
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(c)2008「奈緒子」製作委員会
構成・文:横森文 ※写真・文の無断使用を禁じます。

横森 文(よこもり あや)
映画ライター&役者
中学生の頃から映画が大好きになり、休日はひたすら名画座に通い、2本立てなどで映画を見まくっていた。以来、どこかで映画に関わっていたいと思うようになり、いつの間にか映画ライターに。『スクリーン』、『DVD&ブルーレイでーた』、『キネマ旬報』など多数の雑誌に寄稿している。 一方で役者業にも手を染め、主に小劇場で活躍中。“トツゲキ倶楽部”という作・演出を兼ねるユニットを2006年からスタートさせた。
役者としては『Shall we ダンス?』、『スペーストラベラーズ』、『それでもボクはやってない』、『東京家族』等に出演。
2022年4月より、目黒学園で戯曲教室やライター講座を展開。
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