「疑わしきは被告人の利益に」は守られていない!
それがあまりにも自分が思い描いていた裁判と異なっていたため取材を始めたところ、次から次へと驚くべき事実が発覚。これは映画にしなければならないと強く感じたのだとか。そう、刑事裁判には「疑わしきは被告人の利益に」という原則がありながら、それが全く守られていない現実に監督自身が強い怒りを感じたことが、この映画作りのベースとなっているのです。
加瀬亮演じる主人公の金子徹平は、満員電車に乗る際、上着を扉に挟まれてしまい、なんとかしてそれを引き抜こうとゴソゴソと動き回っていました。その時に近くにいた女子中学生から「やめてください」という声が。どうやら徹平とは関係なく、彼女は痴漢をされていたらしいのです。ところが電車がホームに着いた時、その女子中学生が「痴漢したでしょ」と詰め寄った相手は、なんと徹平。かくして徹平は何もしていないのに、被害者の女子中学生による現行犯逮捕ということで、警察に連れていかれてしまうのです。しかも現行犯逮捕なので警察は有無を言わさず、徹平を犯人と断定。でもやっていないものはやっていないわけですから、徹平は当然のごとく徹底的に容疑を否認。そのせいで彼はまずは10日間を目安に拘留され、厳しい取調べを受けることに……。
矛盾や偏見にまみれ犯人にされていく被告人
また、唖然とさせられるのは、徹平の話にキチンと耳を貸す人がほとんどいないということ。誰も“聞く耳持たず”という態度なのです。確かに徹平は爽やか好青年タイプではないし、覇気のある若者ではありません。26歳でフリーターをしていることもあり、社会的信用もない。でもそういった“見た目のイメージ”だけで、彼を怪しいと決めつけているとしか思えないのです。
特に副検事の発言には、そういった“偏見”を感じずにはいられません。劇中、弁護士の態度が尺に触ったせいか「お前の弁護士もやる気満々だな!」などと言い、あるいは被害者の女子中学生が徹平を痴漢と決めつけただけで、彼女の勘違いという可能性もあり、決定的な証拠がないにも関わらず、徹平を起訴してしまうのです。「こんな弱々しげな女子中学生が嘘をつくわけない……」という副検事の先入観がそこには存在します。かくして徹平はついに法廷で裁かれることに。これの一体どこが「疑わしきは被告人の利益に」なのでしょうか。
この映画を観ていると、日本の裁判制度における様々な問題点や矛盾点を感じますが、同時に外見や肩書きだけで判断する人間の“偏見”についても考えさせられます。たとえば、私たちは医者や弁護士というだけで“立派な人”と思いがち。一方、芸人(しかも頭に“売れない”がつけばなおさらのこと)、イコール“ダメ人間”的な風潮があるのも事実。職業だけでもこれだけ色眼鏡で見るのですから、人間はほとんどの場合、見た目の印象に振り回されているということです。
そういった偏見がいわば“いじめ”をも生み出すことになります。主人公の徹平が捕らえられ、あたかも罪人のように扱われていく様は、まるで国という巨大な権力がたった一人の弱者をいじめているかのよう。今の日本社会の未熟さをそのまま現していると言っても過言ではないでしょう。
体制に物申す勇気のない日本人体質
それにしても一般人には理解しかねる不思議なことばかりがある刑事裁判に対して、なぜ声高に異論を唱える人が今まで出てこなかったのでしょうか? それは日本人のひっこみ思案気質や、ことなかれ主義にも問題があるのではないかと思います。私見ですが、それらは小中高の学校生活を送っている間に培われていくものではないでしょうか。
私が中学生時代にはこんな亊がありました。生徒側の希望で「学生鞄を変えたい」という意見が出たのです。生徒会が全校生徒から意見を募集したところ、驚くほど積極的に意見が交わされ(なにしろ実際に自分たちが持って歩くものですから)、結果的には「鞄は学校指定のものでなくてもよいのではないか」という意見にまで達しました。
そしてさんざん生徒同士の間で検討されたその意見を学校側に提示したところ……、職員会議であっさりと否定されてしまったのです! この時の全校生徒の反応といったら。あれだけ時間をかけ、皆が今までにないほど白熱し、ホームルームの時間に盛り上がったというのに何だったんだ! と生徒全員が一気にしらけムードに。以後、生徒全員の心に「どうせ何を言っても学校側は変わらない」という想いだけが強く残っていったのです。おそらくどこの学校でも似たような事はあるのではないかと思いますが、成長期におけるそういう積み重ねが、ことなかれ主義を生み出す一因になっているのかもしれません。
これは周防監督から聞いた話ですが、今は傍聴席で法廷でのやりとりを自由にメモすることができますが(映画の中でも徹平の友人などが熱心にメモを取っています)、実は近年まで傍聴席でのメモは厳禁だったとか。それはおかしいだろうと異論を唱えたのは、なんと外国人だったそうです。その外国人が訴えを起こしたおかげで、メモを取る権利が得られたわけです。いかに日本人がことなかれ主義で、改革精神に欠けるか、そんなところからも伝わってきます。
さまざまな問題点をはらんだ生きた映像教材
この映画は大人はもちろん、子どもにとってもいい教材になると思います。それほど観客に対しいろいろな問いかけや問題提起をしてくる作品です。実際、試写会などで周防監督のティーチインなどがある時は、日本の試写会では珍しいくらいに質問や意見が殺到しました。最後までネタは明かせませんが、とにかく面白過ぎ! ラストまで観ると実にさまざまな問題点が浮き彫りになってきて、深く考えさせられます。この映画を観て今の日本の裁判制度について、そして自分が主人公やその関係者の立場に立ったらどうすべきか、考えていただきたいと思います。
世の中にはたくさんのトラップがあり、それにいったん巻き込まれたらなかなか逃れられないし、自分の意志をよほど強く持っていないかぎり、すぐに絶望感や無力感に苛まれてしまうということを痛感してほしいものです。ましてやこれからは裁判員制度が始まり、一般の人々も裁判に関わることになります。知らないでは済まされない状況が生まれてくるのです。ただでさえ政治などに関心を持たない人が多い世の中ですが、そういう人が裁判員になることもあるかもしれません。その裁判員がそれこそひとりの人生を左右することになるわけです。それはとてつもなく重い責任を持つことなのだと、子どもたちには学んでいただきたい。ぜひ、いろいろな場面でこの映画を活かしてください。
- Movie Data
- 監督・脚本:周防正行
出演:加瀬亮、役所広司、瀬戸朝香、山本耕史、もたいまさこ、田中哲司、光石研、尾美としのり、小日向文世ほか
(c)2007 フジテレビジョン・アルタミラピクチャーズ・東宝
- Story
- 就職活動中の金子徹平は、会社面接へ向かう満員電車で痴漢に間違えられ、現行犯逮捕された。警察署での取調べで容疑を否認し無実を主張するが、留置場に勾留され、検察庁での担当検事取調べでも無実の主張は認められず、ついに徹平は起訴に。しかも刑事事件で起訴された場合、裁判での有罪率は99,9%なのだと言う・・・。
構成・文:横森文
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(c)2006 Warner Bros.Entertainment Inc.-U.S.,Canada,Bahamas&Bermuda
(c)2006 Village Roadshow Films(BVI)Limited-All Other Territories
(写真提供:ワーナー・ブラザース映画 ※写真の無断使用を禁じます)
横森 文(よこもり あや)
映画ライター&役者
中学生の頃から映画が大好きになり、休日はひたすら名画座に通い、2本立てなどで映画を見まくっていた。以来、どこかで映画に関わっていたいと思うようになり、いつの間にか映画ライターに。『スクリーン』、『DVD&ブルーレイでーた』、『キネマ旬報』など多数の雑誌に寄稿している。 一方で役者業にも手を染め、主に小劇場で活躍中。“トツゲキ倶楽部”という作・演出を兼ねるユニットを2006年からスタートさせた。
役者としては『Shall we ダンス?』、『スペーストラベラーズ』、『それでもボクはやってない』、『東京家族』等に出演。
2022年4月より、目黒学園で戯曲教室やライター講座を展開。