2013.12.10
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『メイジーの瞳』 両親が離婚した少女の視点から描く「本当の家族愛とは?」

今回は、両親が離婚した少女の視点を通して描く、家族愛の在り方『メイジーの瞳』です。

家族なら何でも許してもらえる? 甘えと愛のはき違え

私の友人のお父さんが先日亡くなった。陽気で面白い方だった、という印象が私は強いのだが、友人にとっての父親像は「母や姉には辛く当たることなど一切なかったが、自分にはしょっちゅう当たってくる嫌な人だった」らしい。さらに、「母や姉に対しては遠慮するのに、私には何の遠慮もなかった」とか。だから、絶えずにらまれ、何かというと怒られていた。時には家にいるのが苦痛に思えることもあったそうだ。

これは逆に考えれば、この友人のお父さんは、友人にしか甘えることができなかったと言えないだろうか。本当は、妻や長女など他の家族にも自分の醜態をさらけ出せればいいものを、それができず、結局は自分をさらけ出せる相手にだけ、しわ寄せが行っていた。友人はまさにそういう立場にあったのだろう。

だとしたら、それはただの甘えだ。相手は血のつながった家族だからと言って、理不尽な怒りなどをぶつけることは許されるものではない。けれども、人というものは「愛」をはき違えてしまいがち。家族なら何でも許してもらえると思ってしまう傾向がある。

今回紹介する映画『メイジーの瞳』に登場してくる家族たちも、愛情をはき違えている人々だ。主人公のメイジーはニューヨークに住む6歳の少女。父親・ビールは美術商で、母親・スザンナはロックスター。両親はいつも口ゲンカばかりしており、メイジーの世話は基本的にはベビーシッターであるマーゴが見ている。

ところがある日、そんな両親がついに離婚することとなる。母親のスザンナは何とか単独親権を取りたがるが、かなわず、メイジーは10日ごとに父の家と母の家を行き来しながら暮らすことになっていく。

両親の離婚に振り回される少女の視点から全てを描く

最初の頃こそ、母スザンナは「メイジーと10日間も離れることなどできない」と大騒ぎしたが、コンサートの全国ツアーが始まってくると様子が一変。スザンナの関心はどうしても自分がボーカリストとして奮闘する仕事が第一になり、メイジーに対しては「こんなに私はメイジーのことを愛しているのだから、メイジーだって私のことを理解しているはず」と言わんばかりの行動を取り始める。例えば、メイジーを10日間責任持って養育しなければならない期間に、小学校のお迎えに遅れる。また、メイジーを父親宅に預けているたった10日の間に、いきなり再婚し、その新夫・リンカーンにメイジーのお迎えを完全に任せてしまう。まさに家族ゆえの甘え。愛のはき違え。「家族を養うために仕事をしているのだから、理解してちょうだい」と、身勝手とも言うべき愛をメイジーに押しつける。
父親も父親だ。ビールはスザンナとの離婚直後に、なんとベビーシッターだったマーゴと再婚する。その上、メイジーをずっと世話してきたマーゴにいくら仲が良いからとはいえ、メイジーのことを任せっきりにしてしまう。自分は完全に仕事優先、常に海外を飛び回り、家にほとんど戻ってこない。もちろんその分、メイジーに寂しい思いをさせたくないという気持ちが働くからだろう、新居に用意されたメイジーの部屋には、彼女が大好きな動物のぬいぐるみを飾りまくり、欲しそうなものはすべて買いそろえている。

しかしだ。スザンナもビールも、メイジーが好きなものを買って与えたり、ハグしたり、キスしたりはするが、6歳の子が日常一番してもらいたいことをしていない。それはすなわち、メイジー自身と遊ぶということ。メイジーと一緒にお絵描きしたり、公園に行ってブランコに乗ったりしていないのだ。それをいつもしてくれるのは、マーゴとリンカーンという父母の新しいパートナーたちなのである。

映画はこんな風に両親の離婚のせいで振り回されることになるメイジーの視点から全てが語られていく。父ビールとマーゴの関係がどうとか、母スザンナとリンカーンの関係がどうなるか、とかには派生しない。仮に、彼らカップルたちのドラマが登場したとしても、それはメイジーの目の前で起こったことだけだろう。だから観客側も自然とメイジーの感じることに同調していく。それ以外の情報がないから、自然と主人公であるメイジーの気持ちに寄り添っていくのである。

その結果、両親が自分に愛情を持っていないわけではないし、自分も父や母を嫌いになるわけではないのだが、でも父と母が自分に対して本気の愛情を持ってくれているかどうかは、「わからない」というメイジーの複雑な心境を、観客は手に取るように感じられるようになっていくのだ。

あなたは我が子に、パートナーに、いつも関心を持って接しているか?

愛は実はディティールが大事だと思う。例えば、メイジーが動物を好きなことは知っているけれど、彼女がお城の絵を描いた時、そのお堀にどんな動物を浮かべるか、ということは父母には想像がつかない。けれども、いつもメイジーと遊び、彼女のことをよく理解しているリンカーンにはそれが想像できる。また、彼はメイジーに「これは君が好きじゃないかなと思って」と、メイジーの好みにちゃんとハマった本を買ってきてくれる。

人を愛すれば自然と相手に対して関心がいく。自然と見る。だから何が好きなのかは自ずとわかってくる。よく妻が自分の誕生日に夫が全く好みじゃないものを買ってきた、とプリプリ怒ったりする話を聞くが、それも夫が妻に関心がないからそうなるのであろう。そんなちょっとしたディティールから、嘘の愛情はメッキがはがれていくものだ。

メイジーの父母は「自分とは血が繋がっているから、娘のことは自然と理解できる」と、高をくくり、甘えた。その結果、成長期の真っただ中であり、様々なことを吸収してどんどん変わっていくメイジーを見失っていく。一方、すでに大人であり、今さら劇的な変化が訪れることもない父と母について、メイジーはしっかり理解している。つまり、子どもは大人を理解しているが、肝心の大人たちが我が子を理解できなくなっているのである。
これを見ていて、私は改めて家族とは何だろうと思ってしまった。確かに同じ遺伝子を受け継いでいる親子は、妙に似ている部分がある。姿形だけでなく、考え方や行動が似ることもある(大抵は似てほしくない部分が似るが)。しかし、成長期に体験したことや置かれた環境で、人というのはビックリするほど変化していく。ということは、家族であることに甘え、我が子に関心を持たない期間をちょっとでも作ってしまうと、いとも簡単に家族というものはバラバラになってしまう……そう言えないだろうか。『メイジーの瞳』を見ているとそんな家族関係の脆さに気づかされるし、子育てについても考えさせられてしまう。共働き夫婦の多くが、子どもを託児所などに預けるのが普通になっている現代ではあるが、仕事から戻ってきた時、どんなに疲れていようと、どんなに家事で忙しかろうと、アナタはちゃんと子どもに関心を持って接している……と自信を持って言えるだろうか。
いや子どもだけではない。パートナーに対しても同様だ。メイジーの父母は、メイジーに対して高をくくってしまったように、自分のパートナーにも高をくくってしまうタイプだった。互いに関心を寄せていなかったため、夫婦仲はアッという間に冷え込んでいった。夫婦はもともと他人同士。ゆえに、このような時、関係は余計こじれていくようだ。そんなことまでこの映画は考えさせてくれる。

家族であれ、恋人であれ、友人であれ、人間関係にとって必要なのはとてもシンプルなこと。相手に対する関心。これをこの映画は教えてくれる。そしてその関心を「甘え」によってちょっとでもおろそかにした瞬間、その関係性は終わるのだということを徹底的に示していく。

この映画では最終的に成長過程にあるメイジーが、とある選択をする。それがどういう選択なのかはネタバレになるのでもちろん言えない。だが彼女がなぜそういう選択をしたのか? そして、そこから我々見る者は何を学び取ることができるのか? 是非、見て考えていただきたい。本作『メイジーの瞳』は、自分自身が問題意識を持って見ることで、初めて色んなことがわかっていく、そういう映画に仕上っているから。
Movie Data
スコット・マクギー、デヴィッド・シーゲル/出演:ジュリアン・ムーア、スティーヴ・クーガン、オナタ・アプリール、アレキサンダー・スカルスガルド、ジョアンナ・ヴァンダーハムほか
(C)2013 MAISIE KNEW, LLC.ALL Rights Reserved.
Story
離婚した両親の家を10日ごとに行き来する6歳のメイジー。父親はベビーシッターだったマーゴと再婚、母親は心優しいバーテンダーのリンカーンと再婚をする。やがて自分のことで忙しい父母は、メイジーのことをそれぞれの新パートナーに任せるように。そんな中、母が突然ツアーに出かけ、メイジーは夜の街に独りで置き去りにされてしまう。

文:横森文

※当記事のすべてのコンテンツ(文・画像等)の無断使用を禁じます。

子どもに見せたいオススメ映画
『かぐや姫の物語』

原作の流れを変えず、かぐや姫という「人間」を描いた作品

光り輝く竹の中から見出された少女が美しく成長し、やがて数ある求婚者に無理難題を言っては退け、最終的に8月の満月の日、自分が生まれ育った月の都に戻っていくという誰もが知るかぐや姫、そう「竹取物語」。
この映画はそんなかぐや姫の話を、例えばかぐや姫は宇宙人だったとか、そんな突飛な設定をくっつけるのではなく、水彩画のような味わい深い画と共に原作の流れを変えずに描いていく。誰もが知る物語なのに、高畑勳監督によるこの作品は見ていて全く飽きさせないし、むしろ感動を巻き起こす。その理由はただ一つ。ただの昔話ではなく、かぐや姫という「人間」を描いているからだ。
つまりかぐや姫の行動や思い、そういったものを丁寧に描写することで、まるで竹林の匂いや都にある家の中の香の匂いまでもが漂ってくるような、本当に生きた人間ドラマとして紡ぎあげているのだ。
だからこの作品は、例えば幼稚園~小学生には一人のプリンセスの冒険物語として楽しめるだろうし、中学生以上ならば「生きる」とはどういうことか、「生きる」ために必要なこと、守らねばならぬことは何か、といった深いテーマを内包した作品となっている。人それぞれによって受け取るものが異なる作品になっているのだ。じっくり考えさせるのであれば、小学校高学年以上にオススメする。
個人的には、流されるままに生きるならば、「生」は無駄になってしまうということを強烈に感じた。さあ、アナタは何を感じることになるのだろうか。
監督:高畑勳/声の出演:朝倉あき、高良健吾、地井武男、宮本信子、高畑淳子ほか
(C)2013 畑事務所・GNDHDDTK

文:横森文 ※写真・文の無断使用を禁じます。

横森 文(よこもり あや)

映画ライター&役者

中学生の頃から映画が大好きになり、休日はひたすら名画座に通い、2本立てなどで映画を見まくっていた。以来、どこかで映画に関わっていたいと思うようになり、いつの間にか映画ライターに。『スクリーン』、『DVD&ブルーレイでーた』、『キネマ旬報』など多数の雑誌に寄稿している。 一方で役者業にも手を染め、主に小劇場で活躍中。“トツゲキ倶楽部”という作・演出を兼ねるユニットを2006年からスタートさせた。
役者としては『Shall we ダンス?』、『スペーストラベラーズ』、『それでもボクはやってない』、『東京家族』等に出演。

2022年4月より、目黒学園で戯曲教室やライター講座を展開。

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