先日、ドラマ『不適切にもほどがある!』の第1話を観ました。テレビを全く観ない(そもそも家に置いてない)人間なので、リアルタイムでは観ておらず、遅ればせながらふとしたきっかけで観たわけです。
そしたら、とても面白かった。随分話題になったドラマだそうなのでいろんなところでいろんな人いろんなことを語っているのだと思いますが、色々と考えたことを徒然なるままに書いてみます。
「何も言わなければよかったんです」
主人公は昭和の中学校教師、小川市郎。「地獄の小川」の異名をもち、教室でもタバコを吸い、野球部の顧問として部員一人が練習中に水を飲むと全員にケツバットをするような教師です。現代の感覚からすれば、眉を顰めたくなるような印象です。その小川が、ひょんなことから令和の2024年にタイムスリップします。バスでタバコを吸う姿がネットで炎上したり、コンビニでタバコを買おうとして170円でなく520円なことにクレームを言ったり、まぁすごいのですが、居酒屋でハラスメントについて話している会社員と小川のやりとりは惹きつけられます。
上司が「頑張れ」という一言をかけたことが、部下にとっては「ハラスメント」だと感じられ会社を休んでしまう状況。それに対して小川が一言。
「頑張れって言われて会社休んじゃう部下が同情されてさ、頑張れって言った彼が責められるって、なんか間違ってないかい?だったら彼は何て言えばよかったの?」
それに対して、会社側の人間が一言。
「何も言わなければよかったんです」
これは、本当にドキッとしました。
「無神経」ではいられないけど。
多くの子ども(や大人)が、「言ってほしいことだけ言ってほしい病」に罹っています。自分にとって耳障りなこと、図星をつくようなことを言われて気分を害したら「いじめ」や「ハラスメント」になる世の中です(多分「言ってほしいことだけ言ってほしい病」なんてネーミングも、誰かにとっての何かしらのハラスメントになってしまうんじゃないかと思います)。
じゃあ何を言われたら嫌な人間なのか、オープンにしているのかといえば、「そこは察してください」という状況。
え、そういう「無理ゲー」的な状況を相手に強いることはハラスメントにはならないんですか?と思わず突っ込んでみたくもなります。
だからみんな「何も言わない」ことを選択する。
教育という現場において、耳にやさしいことだけ言われて、負担のないことだけをして、人が成長することができるのか。学ぶ側が、いろんな選択をするということは大切だけれど、学びを乞う相手に対して1から10まで注文をつけ、「私が言ってほしいことだけ言ってください、何を言ってほしいかはオープンにしませんけど」と言うことはどうなんだろうと思いますし、それじゃあ構造的に自分の想定の範囲でしか学ぶことができないんじゃないだろうか?と思ってしまいます。
今の自分が想像もできないところに引き上げてもらう、違う文脈に自分を置き換えるというときには、どうしたって自分に圧力がかかるはずです。
もちろん、教える側も「無神経」ではいけないと思う。人の尊厳を踏み躙るようなことを言っていいわけではないし、学び手を道具や駒のように扱い自分に対して疑問を抱かせないようにし服従させるようなことは、私はしたくありません。
でも、「無関心」でもいられないんです。
「何も言わなければよかったんです」と言われても、どうしても「そうですね」とは言えない。確かに何も言わなければ、その時に波が立つこともありません。でもそこで何も言わない、自分なりの言葉を紡ぎ絞り出すということをしなければ、やっぱり何も変わらないんです。確かに、一度人間関係はぎくしゃくするかもしれない。でも、大切な間柄だからこそそこに摩擦が生まれるわけですし、そこで生まれる熱によって、思考のエンジンが駆動されるのではないでしょうか。
「無関心」に徹して一定の距離や温度を保つことで劇的な変化をできるほど、人間というシステムは淡白にできていないのではないでしょうか。
とまぁ、こういう考え方をもつ僕は随分昭和な人間なのかもしれません。タバコは買ったこともないし、平成元年生まれだけど。
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今村 行(いまむら すすむ)
東京学芸大学附属大泉小学校 教諭
東京都板橋区立紅梅小学校で5年勤めた後、
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