2020.03.19
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「主体化」のための教育を社会に!

前回報告しました「大学生のためのフリースクール 」構想を「宣言」したことで、おそらく形になりました。思考は現実化するというのは本当だなと実感しています。
連日の新型ウィルス騒ぎでつくづく感じるのは、この国の「民主主義」の行方です。ガート・ビースタ『よい教育とは何か』を読むと、今私たちに必要なのはまさにビースタが言うところの「民主主義」なのではないかと考えています。そのキーワードは「主体化」。今の学校は「資格化」と「社会化」で手いっぱいで、社会の中で個としていかに生きるべきかを問う「主体化」の方にまでなかなか目が向けられていないと思います。それならば、この機能は学校に頼りきらず、別のやり方でそれを補ってみたらどうだろう。学校と切り離すのではない形で。「相乗効果」を狙う第三の方法で。私の構想する「主体化」のための教育は、社会の中に啓かれた、枠組みのない自由な空間が先にある。そこに集まった者たちが対話の中でその形を自由に創造し、広げていく。歩みを進めたその後ろに形ができていく。そんな新しい教育の形をまさに今、模索しはじめました。

札幌大学地域共創学群日本語・日本文化専攻 教授 荒木 奈美

ガート・ビースタが『よい教育とは何か』(白澤社/現代書館2016)で主張している、教育における「主体化」としての役割に関心を寄せています。大学での学び方がわかりやすいと思うので例を挙げて説明しますと、今大学に課せられている教育的役割は複数あるということを実感しています。ビースタに倣って3つ挙げます。

まずは「資格化」。これは、大学が「ある学問における学術的達成」を大前提としていることからよくわかります。経済学部で4年間学び、然るべき単位を修得したら「経済学士」の称号を得る。国文学なら「文学士」、法学なら「法学士」。大学にはそのような専門的な学びが開かれています。高校教員時代、高校生に進路指導するときに最初に問いかけるのはいつでも「それで、あなたは大学でどんな勉強をしたいの?」でした。そして「それを大学で学んで、将来はどんな仕事に就きたいの?」でした。その時は自分のその発言が生徒たちを制限された学びに追い込んでいるかもしれないということにすら気づきませんでした。本当は大学での学びはそれだけではないのだということを確信したのは、恥ずかしながら自分が大学の教員になって、いろいろな学生と出会って気づかされたことでした。

次に「社会化」。社会のなかでよき働き手となるための人生勉強というのも大学の大事な役割の一つだと思います。最近はこの「社会化」が「資格化」の意味を上回っているという印象も受けますが。入学直後からキャリアガイダンスがあり、たびたび就活セミナーが開かれ、卒業時に自分の納得の行く就職先を得られたことを卒業できた喜びと重ね、評価を受けたりもします。ビースタはこの「社会化」について、それを決して完全否定している訳ではありませんが、時に揶揄的に「特定の社会的、文化的、政治的な『秩序』の一部となるための、教育プログラムや教育実践の提供」と表現しました。言い換えれば、私たちは学生たちが社会の中でよき「歯車」となるための教育も請け負っているということです。この「社会化」的な要素は、2009年に大学が「ユニバーサル段階」(日本では2009年以降18歳人口のうち大学入学者が50%を超えました。トロウという学者が、この「ユニバーサル段階」に入ると、もともとはエリート養成の役割を果たしていた大学の社会に果たす役割が大きく変わると指摘しています)に入った前後により顕著になったような印象も受けています。

そして3つ目の「主体化」。確かに大学は、専門的に自分の選択した学問を学び、よき社会人としての素養を身につけ、4年間で大きく成長して社会の中に送り出す大事な役割を果たしていますが、本当はそれだけは足りないと思います。「主体化」は、ある意味「社会化」と真逆の役割を果たします。それは「秩序」からの独立。置き換え不可能な自分自身の「独自性」に気づくこと。自分で定めた「価値観」で世の中を見つめ、社会の中に自身の居場所を定めること。これを実感できてはじめて、人は自分がこの社会に存在している意味を知り、安心して社会の中で生きていくことができると考えています。ところが、この「主体化」教育の場は、大学の中には開きづらい。それが私にとって一番の泣きどころです。「主体化」教育の重要性に気づけて、しかも自分自身がすぐにでもその教育を実践できる場所にいる。それなのにその「実践」ができない。もどかしさだけを抱えたまま、中途半端に自分の置かれた環境を恨めしく思うだけで日々が過ぎていく・・・

その理由はここで簡単に結論づけるわけにはいかない、さまざまに入り組んだ複雑な事情を伴っていると思います。「主体化」教育に大前提となるのは「誰が」その学習に臨んでいるのか、「その人が何を目的として」それをするのか、という圧倒的な「自分ごと」としての学びです。ソクラテスの時代であれば当たり前の教育スタイルであったであろう「対話を通して師と弟子が学びあう」ような徹底した個を問う学びのあり方が求められます。しかし大学にそのような学びの場はそう簡単には開けません。4年間は本当にあっという間。一人ひとりとじっくり向き合って、それぞれの声に耳を傾けて・・としている間に失ってしまうものが大きすぎる。卒業できなければ授業料が嵩みます。社会的な信用も落ちていく一方です(私はそうは考えませんが)。そもそも大学のシステムにこの「主体化」を問う教育は不釣り合いなのかもしれません。

と、前置きが長くなりましたが、そういう訳で、私がこの学校を開きたいと強く願うようになった経緯はすでにお分かりいただけたのではないでしょうか。私が目指すこの学校での教育は、その「主体化」を前面に出して、一人ひとりの「生き方」に焦点を当てることを望んでいます。今の大学教育に足りないものをここで補って、その上で二十歳前後の若者たちを社会に送り出すための役割を果たしたいと考えています。大学生に限らず、進路に迷っている高校生、高校卒業して生き方を見失ったままとか、大学を卒業してもなお自己のあり方が見えなくてぼんやりしているとかの、ストレイシープ(さまよえる人)たちへ。何よりもまず彼らが当たり前と思って受け入れている「秩序」のありかに気づいて、そこから解放し、自由に生きてもよいということを私としては伝えたいです。そして本当に自分の価値観で自分を見つめ返せるようになるまで繰り返し対話をして、学校のカリキュラムではできない、一人ひとり置き換え不可能な自己への気づきを支えたいと思っています。

でも実はこの「主体化」教育には続きがあります。今の私は、この「続き」にまで責任を持って教師が寄り添ってはじめてその人の「主体化」としての学びは完成すると考えていますが、これについては私も実践がこれからなので、こちらについては私自身も経験の中で学び、よい成果が出たところで責任を持ってその重要性を明らかにしたいと考えています。

半年間、ありがとうございました。もしこの続きに興味を持っていただけましたら、この話は最近立ち上げた私のプロジェクト(前回宣言した大学生のためのフリースクール提案から少し発展し、一歩先に進みました!)に続きますので、応援よろしくお願いします。学校と社会をつなぐCòsagach.

荒木 奈美(あらき なみ)

札幌大学地域共創学群日本語・日本文化専攻 教授
高校で12年間、大学で8年半、たくさんの高校生や大学生と主に文学作品を通じて関わってきました。自分の好きな漫画やアニメやゲーム、アーティストについて語るとき、彼らは本当に顔を輝かせて熱心に語ってくれます。自分の「好き」を極めたいと思うことは学びの原点。高校生や大学生の「学ぶ意欲」を引き出すために私たち教師ができることは何だろう。「主体的に学ぶ」学習者を育てるための教育のあり方について、今日も実践を通じて、探究を続けています。

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