家族にとってのよろこびを考える(後編) 「道徳から動徳へ」子どもの心と行動をつなぐ授業づくり、島しょ勤務の魅力
前編では、昭島市立小学校で2026年2月27日に行われた道徳の授業「家族にとってのよろこび」をリポートした。後編では授業者の柿原健吾主任教諭に、道徳の授業の変化や評価、道徳を専門にするようになったきっかけ、伊豆大島赴任中の生活などについて伺った。
話し合いの土台を揃えてから、授業に入る
柿原主任教諭
——子どもたちの家庭環境や生活背景が多様化する中で、特定の価値観をあつかう道徳の授業をどのように進めていますか。
柿原 健吾 主任教諭(敬称略 以下、柿原) 家庭環境の違いによって、子どもたちの経験には大きな差があり、話し合いの土台となる部分も、スタートの段階からばらつきが生じがちです。その状態で授業を進めてしまうと、内容の理解の仕方にも差が出てしまうことがあります。
そこで、理解にばらつきが生まれそうな内容をあつかう場合には、あらかじめ言葉の定義をできる限りかみ砕いて説明したり、背景となる状況を丁寧に伝えたりしたうえで、授業に入るようにしています。
——具体的には、どのような経験に差が生じてくるのでしょうか。
柿原 道徳の教材では、伝統や文化に関わる題材として、昔ながらの道具や暮らしが取り上げられることがあります。しかし、子どもたちの経験はさまざまで、「おばあちゃんの家に行ったことがない」「その道具(「曲げわっぱ」など)は見たことがない」といった反応も見られます。近年は祖父母世代もマンションに住んでいたり、教材の設定より若いです。前提となるイメージが共有されていない場合には、内容の理解につながりにくいこともあります。だからこそ、教材の選定は重要だと思います。教科書に掲載されている内容であっても、子どもたちにとっては身近ではない場合もあり、その点は注意が必要です。
「道徳」から「動徳」へ
——柿原主任教諭は、「道徳から動徳へ」という言葉を掲げています。そこには、どのような思いが込められているのでしょうか。
柿原 道徳というと、「価値を教わって終わり」というイメージを持たれがちで、子どもたち自身も、その価値が大切なものであることはよく理解していると思います。ただ、その価値をなかなか実際の行動に移せない自分がいる。そうした現実もあるのではないでしょうか。
だからこそ、授業で学んだことが、少しでも日常生活の中で行動として表れ、目に見える形につながっていけばよいと考えています。そこで道徳を「動く」という意味を込めた「動徳」という考え方で捉えるようにしています。
——日頃から実践する、道徳の授業での取組を教えてください。
柿原 どの授業においても、子どもたちから「漏れ出た声」を大切にしています。そうしたつぶやきのような言葉こそが、その子の本心に近いのではないかと感じているためです。授業の流れとして、次に用意している発問へ進みたい場面もあるのですが、思い切ってその声を拾うようにしています。ふと漏れ出る言葉というのは、とても自然なもので、子どもたちの心の中からあふれてきた思いだと感じています。
また、発問を事前にしっかり考えて、ノートに書き出して準備しています。子どもたちに学んでほしいことに対して、どのように問いかければ、子どもたちがそれを捉えられるのか、前日まで何度も考えながら発問を練っていきます。発問がうまくかみ合っていないときは、子どもたちの手の挙がり方も少なく、表情もどこか乗り切れていません。そういうときは、「少し問い方が違ったかな」と感じることもあります。
——道徳の研究会などで話題に挙がる視点などを聞かせてください。
柿原 発問の仕方については、よく議論になります。例えば、今日の授業でも「どんな気持ちだったでしょう」と尋ねるのか、それとも「なぜ涙を流したのでしょう」と聞くのかによって、子どもたちの発言の内容は大きく変わってきます。「なぜ」と問いかけたほうが、子どもたちが理由を整理しながら理解できるのではないかという考え方があります。その一方で、「なぜ」と聞くと、どうしても理由を探す形になり、子どもたちが正解を探すような発言になり、少し一歩引いたような答えになることも多くなります。
私自身は「どんな気持ちだったでしょう」「どんな思いだったでしょう」といった聞き方のほうが、子どもが登場人物に自己投影しやすく、自分の経験と重ね合わせながら考えやすいのではないかと考えています。
変容を求めず、「考える過程」を評価
——2018年度の道徳の教科化以降、道徳の授業でも評価が求められるようになりましたが、道徳の研究会などでは、「評価」についてどのように整理されているのでしょうか。
柿原 評価のあり方については、先生方によって考え方が分かれている印象があります。ワークシートに書かれた内容で評価するのか、それとも子どもの発言をもとに評価するのかといった点です。そのため、「どのように評価するか」というよりも、「どこで評価するのか」という点が、よく議論のテーマになっています。
今日の授業のように、発問に対するやり取りの中で評価するのか、それとも最後の自己を見つめる場面など、子どもたちの内面がより表れやすいところで評価するべきなのか、といった点ですね。
——道徳の授業では「○○な心情を育てる」といったねらいが設定される一方で、実際の評価では「どれくらい考えることができたか」という観点で見られることが多いように感じます。ねらいと評価の間にあるこの違いについて、どのように整理されていますか。
柿原 評価において、「ねらい」との整合性は意識しなければならないと思っています。しかし、「○○な心情が育ったか」という点で毎時間の変容を求めるような見方は、その変容を前提にした授業となってしまいます。そもそも、「育った」と断定することについては、正直なところ私自身にも判断が難しく、子ども本人も自覚しているものではないのではないかと思います。
むしろ、その価値について考えようとしていたかどうか、たとえ発言していなくてもメモを取っていたり、周りの話を聞こうとしていたりしたかといった「考える過程」の部分こそが、道徳の評価として大切なのではないかと考えています。
私たち教師も陥りがちなのですが、子どもの「変容」を求めすぎてしまうことへの反省もよく話題に挙がります。どうしても授業の最初よりも最後のほうが良くなってほしいという思いが強くなり、発問そのものが「どのようなことが分かりましたか」「どんな気持ちになりましたか」といった形になりがちです。こうした問いかけは、場合によっては価値を押しつけてしまうことにつながるのではないかという議論もよくあります。
——「変容」を求めすぎない、というのは、子どもの変化には時間がかかるものだという前提に立っているからですね。
柿原 そうですね。授業中にワークシートに思いを書けなかったとしても、それはそれでいいと考えています。今日はあまり書けていないなと思う子もいれば、逆に「今日は最後の行まで書けたよ」と話してくれる子もいます。普段はなかなか書けない子が書けたということもありました。そうしたばらつきも含めて、私は道徳らしい姿だと思っています。頭の先から心に降りるまでは時間がかかるだろうなとは思いますね。
頭の先から心に降りるまでは時間がかかる
——これまでの実践の中で、「子どもたちが実際に動いたな」と感じた出来事や、「やってよかった」と思えた印象的な体験があれば教えてください。
柿原 あるとき、勉強が少し苦手で言葉遣いも荒く、けんかも多い子がいました。しかし、その子にはとても家族思いな一面もありました。本人も「勉強は得意じゃないけれど、家族のことは大事にしている」という思いを持っており、道徳の授業で学んだことを自分なりに受け止め、生活の中で生かしているように感じられる場面がありました。
「できないことはできない」「やれないことはやれない」と正直に言う子でしたが、だんだん「では、どうすればできるようになるだろう」と自分なりに考え始める様子が見られるようになり、少しずつクラスのみんなと一緒に授業に参加できるようになりました。
年度初めは、わからないことがあると授業に向き合わないような様子も多く見られましたが、だんだん「少し頑張ってみよう」という気持ちが芽生えてきたのだと感じます。保護者の方からも、そうした変化についてお話を伺うことができました。子どもの成長にはやはり時間がかかるものだと、改めて感じましたね。心が動くまでには、長い時間が必要なのだと思います。
「考え、議論する道徳」の授業が学級経営の土台に
——道徳の教科化以降、コロナ禍も含めて子どもたちを取り巻く環境が変化する中で、この約8年間でどのような変化を感じていらっしゃいますか。
柿原 道徳に関する出版物がとても増えたということです。専門的で分かりやすい本も多く、さまざまな立場の方が発信しています。道徳の研究が広がってきている証なのではないかと思っています。また、教材の扱い方についても工夫が広がってきていると感じます。デジタルの活用やスライドの使用など、授業の方法も多様になり、いろいろな手法が研究されてきた結果なのだろうと感じています。
一方で、道徳は成果が目に見えやすい教科ではないという難しさもあります。専門ではない先生方からすると、他教科とは少し違う扱いになってしまうこともあるように感じます。
——具体的には、どのようなあつかいがあるのでしょうか。
柿原 例えば、「今日は教科書を読んで家族について学んだ」という理解だけで終わってしまい、それが実際の行動の変化にはつながりにくいのではないか、といった見方もあります。また、教員側にも、行事の練習や子どもたちだけの話し合いを、“道徳”の授業としてあつかう場面も見られます。このように、道徳がやや形式的にあつかわれてしまう場面がまだ残っているという課題も感じています。道徳を専門としていない教師であっても、教科書をしっかりあつかいながら授業を丁寧に行っていくことが、これからも大きな課題だと思います。
——周りの環境など、一番大きく変わった点はどのようなことですか。
柿原 一番大きく変わったと感じるのは、道徳の授業をきちんと継続して行っているクラスは、やはり土台となる部分がしっかりしているという点です。道徳を専門にしているかどうかに関わらず、週に1回、あるいは遅くとも2週に1回程度でも、継続して丁寧に授業を行っているクラスは、多少トラブルが起きたとしても、大きく崩れることが少ないように感じています。まだ私の実感レベルですが、そうした意味では、道徳が教科として位置づけられたことの意義は大きいのではないかと思います。校長が年1回は全教員の道徳の授業を参観する学校も多いと聞きます。
自分の弱さも含め、思いを語れる子どもを増やしたい
——柿原主任教諭が、道徳を専門にしたきっかけを教えてください。
柿原 もともとは体育を専門にしようと考えていました。教師になって5年間は体育の研究授業にも取り組み、体育の教師道場にも参加したいと申し込みました。ただ、そのときは残念ながら選考に通りませんでした。ちょうどその頃、校内研究のテーマが道徳になりました。
道徳研究2年目のとき、クラスに不登校気味の児童がいて、週に2回ほどしか登校できない状況でした。ある日の道徳の授業で、最後に自分のことを振り返る場面がありました。そのとき、その子が突然手を挙げて発言したんです。
何を話すのだろうと思って聞いていると、「実は私はずる休みをしています」と話し始めてくれました。理由を聞くと、「クラスのみんなを見ていると、とてもキラキラして見えて、自分に自信がなくなってしまう」と言うのです。そして、ある本を読んだときに「あなたは変わる必要はないんだよ」という言葉を目にした瞬間、涙があふれてきて、「私は私のままでいいんだ」と思えた、ということを話してくれました。
その姿を見たときに、子どもが自分の弱さや本音を語れる時間というのは、道徳の授業ならではのものなのではないかと強く感じました。こういう時間が自分の子どもの頃にもあったら、もう少し違っていたのかもしれないとも思いましたし、今の時代だからこそ、こうした時間は大切にしていくべきではないかとも感じました。そうした経験がきっかけとなり、こうした思いを語れる子どもをもっと増やしていきたいと思うようになったことが、私が道徳に力を入れるようになった大きなきっかけです。
大島での3年間
その土地の価値観にフィットさせる
——柿原主任教諭の前任校は、離島の大島の小学校ですね。そのときの経験について聞かせてください。
柿原 大島の小学校へは、自分で希望して公募試験を受けて異動しました。東京都では毎年11月頃に島しょ地区勤務の公募試験があり、倍率は高めです。当時は伊豆七島のどこかの島に行ってみたいという思いがあり、「どこでもいいので島に行きたい」という形で希望を出しました。
まず、八丈島の面接を受けたのですが、最初は残念ながらうまくいきませんでした。ところが、その後、大島の学校から空きが出たとお声がけいただき、2022年4月から3年間、大島の小学校に勤務することになりました。教師道場で月1回都心に出張して、他のメンバーの授業を見る機会もあり、充実した毎日でした。
——実際に大島の小学校へ赴任されて、どのような印象を持たれましたか。
柿原 人間関係の距離がとても近いというのが、まず大きな特徴でした。住宅も基本的には通勤時間30秒の教員住宅になるので、先生方と生活の距離も近く、まさに寝食をともにするような感覚でした。子どもたちとも学校以外で顔を合わせる機会が多く、赴任前は、「休みの日に児童たちと会うのはどうなのだろう」と少し気になっていたのですが、行ってみると案外自然に受け止められましたね。休日に児童と釣りに行ったりもしました。とはいえ、人間関係の距離が近い分、うまく距離感を取りながら関わっていく難しさはあったように思います。
一方で、島ならではの活動も多くありました。海に行って生き物を探す行事があったり、海岸の清掃活動を行ったりすることもありました。そうした経験を通して、本土とはまた違った生活が広がっているのだと実感しました。生活の環境は大きく異なり、そこがとても印象的でしたね。大島では、大学進学で本土に行っても、また戻って来る場合が多いようです。
——大島での3年間で印象に残っている学びや気づきを教えてください。
柿原 人のせいにしないというか、あまり他人に過度な期待をしないという姿勢は、そこで強く意識するようになりました。「なぜこの人は分かってくれないのだろう」と考えてしまうと、結局、気持ちよく話せる相手は限られてしまいます。人口も少ない地域ですし、「誰かに代わってほしい」と思っても簡単に環境が変わるわけではありません。
子どもたちについても同じでした。私が受けもった学年は28人で、島の中では比較的多い人数でしたが、子どもたちは保育園の頃からずっと同じメンバーで育ってきています。そのため、「この子はこういう子だ」という周囲の認識がすでにできあがっており、その壁を崩すことが最初はとても難しく感じられました。
しかし次第に、無理にそれを崩そうとする必要はないのではないかと思うようになりました。その土地にはその土地の文化や価値観があり、必ずしも「学力が高いことが幸せ」という価値観だけを求めているわけではないと感じたからです。世の中で一般的に大切だとされている価値観が、必ずしもその地域でも同じように求められているとは限りません。もしそこに違う価値観を持つ人たちがいるのであれば、無理に引っ張っていくのではなく、その価値観を尊重することが大切なのだということを学びました。
自分の言葉で考え、語ることを大切にする姿勢
——柿原主任教諭が、子どもたちに伝えることができたと思うことなどはありますか。
柿原 子どもたちからもらった手紙の中に、「余計なことを言わない先生」という言葉が書かれていたのが印象に残っています。特に学級会では、私が途中で口をはさむことがほとんどなかったので、それがありがたかったというのです。子どもたちの意見が次々と出ているときに「ちょっと待った」と止める教師も多いけれど、私は「そうなんだ」と受け止めるだけで、自分の価値観を付け加えることをあまりしなかった。それが、子どもたちにとっては話しやすかったということでした。
その言葉を聞いて、子どもたちはやはり自分たちで話したいのだな、思いを表現したいのだなと感じました。時には、大人の視線がいらないと感じる場面もあると思います。そうした意味で、子どもたちが自分の言葉で考え、語ることを大切にする姿勢は、一つ伝えられたことなのではないかと感じています。そうした経験は、少しは子どもたちの中に残してあげられたのではないかと思っています。
——ありがとうございました。
記者の目
今回の授業で印象的だったのは、「家族」というテーマを、子どもたちの実感から丁寧に立ち上げていた点である。お手伝いに関する事前アンケートの結果を共有することで、子どもたちは自分たちの日常と結びつけながら授業に入り込む。教材「ブラッドレーのせいきゅう書」を通して、お金では測ることのできない家族の思いについて考えを深めていく。そして終盤、保護者からの手紙を読む子どもたちの姿からは、家族の思いを改めて受け止めようとする様子がうかがえた。こうした積み重ねが、子どもたちにとって家族との関わりを知るきっかけになると感じた。
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柿原 健吾(かきはら けんご)
初任校であった東京都青梅市の小学校で道徳科の専門性を高めたいと考え、東京教師道場で道徳を専門的に学ぶ。2022年4月には大島町の小学校へ赴任。2025年に東京本土へ戻り、現在は昭島市の小学校に勤務する。道徳科の授業づくりに継続して取り組んでいる。
取材・文・写真:学びの場.com編集部
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