教育トレンド

教育インタビュー

2009.07.14
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広田照幸 教育問題の真実を語る 学力格差は? 教育改革は? 家庭教育力の低下は?

広田照幸さんは教育を歴史的、社会科学的視点から研究する教育社会学者。「今の親のしつけはなってない」「学力低下は学校のせい」「子どものコミュニケーション能力が低下している」......世の中には保護者や教員、そして子どもたちに対する様々な指摘が飛び交っています。が、それらは本当にそうなのでしょうか。広田さんに解説していただきました。

家庭の教育力は低下していません。

学びの場.com今日は、世間一般で言われている教育問題の見方について、歴史的、社会科学的視点も含めて教えていただきたいと思います。まず、家庭の教育力が低下しているとよく言われますが、広田さんは以前からそうではないと主張されています。

広田照幸歴史研究を通してはっきりとわかったのは、今は家庭がダメになっているのではなくて、「家庭がしっかり教育しろ」と、社会が強く求めるような時代になったということです。昭和初期までは、庶民の家庭が子どもの教育に力を入れることもそれほどなかったですし、社会的に家庭教育が問題にされる度合いが今よりも低かった。ですから、「家庭の教育力が低下している」というより、「家庭の教育力への社会的関心と責任追及とが高まっている」ととらえたほうがよいと思います。

学びの場.comそうした社会からの過剰とも言える要求によって、子育て不安になっている保護者の方々もいるようです。

広田照幸明治、大正、昭和期の親たちと比べても、今の親たちが子育てやしつけに手を抜いているわけではありません。むしろ、気の毒なくらい一生懸命になっている。あまり不安を抱かず、うまくいっている部分をきちんと評価しながら子育てをしてみてはどうでしょうか。「ちょっとした失敗はあたりまえだ」と考えた方がいい。

学びの場.com社会全体の認識を変えていく必要もありそうですね。

広田照幸そうです。ここに面白いデータがあります。2007年に内閣府が行った意識調査で、家庭内のつながりは強い方か弱い方か、というアンケートをしたら、「強い方だ」「どちらかと言えば強い方だ」と答えた人が合わせて全体の9割近くになったというのです(2007年11月18日付日本経済新聞「地域とのつながり『弱い』52%」参照)。  よくメディアは現代の家族像の典型を「希薄化した家族」とか「バラバラになった家族」と表現したりしますが、必ずしも現実の大半の家族はそうではない。だから「おたくはどうですか?」と尋ねられると、「強い方かな」と多くの人が答える結果になる。  家庭の教育力も同じで、問題のある家庭を過剰に一般化して、現代の家族は教育力が低下していると騒いでいる傾向はありますね。大部分の家庭は熱心に、うまく子育てしているのだということを冷静に見なくてはいけないと思います。

学びの場.com最近は、子どものコミュニケーション能力の低下がよく問題とされますが、これも家庭の教育力の問題と似たような構造があるのでしょうか。

広田照幸これもある種の社会的“あおり”があると思います。コミュニケーションや対人関係が重視されるようになってきたから、あえて過剰に問題にされている部分がある。今は「いろいろな人と、幅広くコミュニケーションがとれる人間になれ」という社会的欲求が非常に高まっているので、子どもの未熟さが目についてしまう、ということです。  昔の子どもたちのコミュニケーション能力が高かったわけではないです。戦後すぐ(1950年代)の農村の子どもたちに関する調査でも、「あいさつも苦手」で、社交的な振舞い方に欠けている点が嘆かれていました。友だちづきあいに関しても、ボス支配とか今で言ういじめとかが蔓延していた。フラットな人間関係の中で、如才なく相手を気遣いながらコミュニケーションする子ども、なんてのは、都市部の豊かな階層の子どものイメージでしかなかった。

学びの場.comでは、以前に比べて子どものコミュニケーション能力が低下しているわけではないのですね。

広田照幸ある研究では逆に、特に10代の子どもたちのコミュニケーションはとても繊細で、お互いに配慮するようになっている、という結果も出ています。むしろ相手を気遣いすぎてジレンマに陥るなど、コミュニケーションに対して過敏になりすぎている部分すらあります。  大人には稚拙に見えたとしても、子どもは子ども社会の中で必死にコミュニケーションをとりながら生きているとも言えます。社会の中で必要なコミュニケーション能力は、本人がいろいろと経験していけば自然と身につくものですから、それほど早くから求めることはないのではないでしょうか。

学力格差を落ち着いて見てみると…。

学びの場.com学力問題についても、社会的に大きく取り上げられています。とくに学力格差についてはいかがでしょうか。

広田照幸学力格差そのものは昔から存在します。戦前からのデータを一つご紹介しましょう(表1)。
表1 平均得点値とその分布比較 (  )内は問題数

 たし算(61)ひき算(27)かけ算(22)わり算(21)
1929年平均得点38.0613.8913.399.76
標準偏差12.855.654.14.67
1951年平均得点30.519.7910.026.63
標準偏差10.924.734.163.79
1976年平均得点44.616.314.911.5
標準偏差10.85.33.64

たとえばここで、わり算だけ見てみます。1929年は、平均点数は高いけれど、標準偏差が大きく、できる人とできない人のバラツキが大きかったことがわかります。1951年はバラツキは小さくなったけれど、平均得点が低下し、等しく皆できていなかったことを示しています。1976年はバラツキが小さく平均得点が高い。等しく皆ができている、という状況でした。  学力問題が議論されるときに隠れた基準とされているのは、この70年代ぐらいの「等しく皆ができた時代」です。この頃というのは、進学競争が加熱し、過剰な詰め込み教育がなされていたので、一種特異な時代だったとも言えます。あの時代を基準にしなければ、現状について、もっと違う見方ができる。今は、おそらく、1929年に比べれば学力のばらつきは小さく、51年に比べれば今のほうが学力は高い、とも言えるわけです。  では、今何が一番の問題かと言えば、低学歴の保護者や経済的に安定しない階層の子どもたちが学力不振に陥ってしまうこと。つまり、社会的不平等と学力格差が重なるような状態が強まることが危惧される点が問題です。

学びの場.comそうした現状に対して、学校現場では何ができるのでしょうか。

広田照幸どの子どもたちにも、学習に取り組む姿勢を身につけさせることが大事ですね。
 ですが、そもそも子どもたちに自ら学習させるということは、はるか昔からずっと続く、教育の難しい課題でした。先にも言いましたが、70年代は「受験のため」と理由づけが恫喝のように利いていました。しかし、今は大学全入時代ですから、それも通じません。  ではどうしたらよいのでしょうか。楽しい授業をするというのは一つの方法ですが、ただ楽しいだけでは、「学力」として蓄積していくことにはなりません。
 とりあえず、二つの方法が考えられます。一つは、勉強そのものの面白さを伝えること。原理原則がきちんとわかって身につくような授業を工夫する、ということを教員の皆さんにお願いしたいです。「楽しい授業」ではなく「面白い授業」を、ということです。  そしてもう一つは、勉強している内容の有用性を感じてもらうことです。子どもたちは将来、社会に出て仕事をしたり、家庭を持ったりするのですが、そのときに今学んでいることが役に立つ、ということを、もっと伝える必要があると思います。「受験のため」と理由づけできちんと説明されてこなかったことを、もっと子どもに伝えるべきだと思います。「いずれ役に立つ知識を学んでいるんだ」と思えば、学習へ向かう態度も変わってくるのではないでしょうか。

理想の教育改革のカタチとは?

学びの場.com近年、立て続けになされる教育改革によって、学校現場は多忙化し、教員は本来の仕事である授業準備などに十分な時間もとれないと言われています。

広田照幸現場の多忙化の一因は、教育学者ではない人たちが、行政組織の改革論理をそのまま教育に持ち込んでいることが挙げられます。PDCAサイクルなど、明確な目標をかかげて実行し、評価する、というシステムそのものが学校現場の状況を踏まえていません。よく効率化が問題にされますが、教育そのものが基本は効率を基準には動かないですよね。試行錯誤や、一見無駄と思えることも、教育にとっては実は重要だったりするわけです。

学びの場.comなるほど。では、どのような点を改革者は気をつければよいのでしょうか。

広田照幸今は、世間一般に流布している一面的な学校像で現状認識が作られ、そこに乱暴な原理がふってきて、お金も出さない、あとは丸投げ、現場でやれという状況です。変えるべきことは3つあります。(1)現状認識をリアルなものに変える。(2)改革をするときは、起こりうるプラス面とマイナス面をシミュレートする。(3)その上で、改革に必要なお金や人はきちんと保障する、ということです。

学びの場.com広田さんご自身が考える、理想の改革の形はありますか。

広田照幸市場化や競争・評価で改革をしていくという近年のやり方は、教育現場をいたずらに疲弊させてしまうばかりです。これまでの日本の教育が持っていた長所の部分さえ壊してしまいつつある。イデオロギー先行の改革論議が、「改革が問題を生む」という悪循環を発生させてしまっている。  性急に「どう改革すべきか」を求める前に、政策レベル、現場レベルの双方で、まずは現状の認識をめぐって十分な議論をすることが必要だと思います。歪んだ現状認識に立って、おろかな選択肢が飛びかっているのが現状だからです。

政策レベルでは、教員、保護者や教育学者、行政担当者などが皆で集まって大議論をして、教育の現状を見つめ直すところから始めてほしい。改革案があらかじめ用意されているような議論の場ではダメです。ちゃんとしたデータや資料をもとに、教育の現状について3年ぐらい議論したら、「何をどこまでやるべきか」は、自ずと出てくるはずです。  現場レベルでの関係者が集まって議論することも重要です。今の学校に対するいろいろな不満は、当事者の改善や工夫で緩和できる部分がたくさんあるように思います。たとえば、学校にはいろいろ改善すべきところがあっても、教員は長年の慣習で気がつかない部分があると思います。一方、学校が考えぬいた末に実行している部分が、保護者から一面的な批判を浴びることもある。それらについて両者が話し合うことはとても有益です。  日本は教育に対する社会的期待も、先生のモラルも高いのですから、それを確実に生かせる条件整備が大事だと考えます。

広田 照幸(ひろた てるゆき)

1959年広島県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。現在、日本大学文理学部教授。教育学博士。専門は教育社会学、教育史、社会史。著書に『陸軍将校の教育社会史』(世織書房)、『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)、『教育ー思考のフロンティア』(岩波書店)、『教育には何ができないか』(春秋社)、『〈愛国心〉のゆくえ』(世織書房)、編著に『こんなに役立つ数学入門』(ちくま新書)ほか多数。2009年7月に『格差・秩序不安と教育』(世織書房)を出版予定。

インタビュー・文:菅原然子/写真:言美歩

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