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教育インタビュー

2024.03.11
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グレゴリー・
ケズナジャット
ことばと真剣に向き合う(後編)

活字発信は外国人にも平等

法政大学グローバル教養学部准教授として、谷崎潤一郎作品を中心とした日本文学や越境文学を研究するグレゴリー・ケズナジャット氏。後編では、大学教員としての仕事やことばとの向き合い方、そして外国語である日本語で小説を書く魅力について伺った。

自分の世界観が試されるような経験

学びの場.com

大学教員としての仕事は、具体的にどのようなことをされているのですか。

グレゴリー・ケズナジャットさん(敬称略 以下、ケズナジャット)

週5コマの授業を担当しています。それに加えて、大学の委員会への出席や文学の研究にも取り組んでいます。また、コミュニティ形成ができることも大学教員の魅力ですね。学会に出席すれば、いろんな研究者がいて刺激を受けますから。

あとは学生とのコミュニケーションも大事な時間です。研究者になって、読む時間、そして書く時間を確保できるようにはなりましたが、ひとりよがりになってしまうといいものは書けません。学生たちとのコミュニケーションは、教員のためにもなります。

学びの場.com

法政大学グローバル教養学部では、どのようなことを学ぶのでしょうか。

ケズナジャット

主に、複数の言語を使って仕事したい、海外の大学院に進学したいという学生を対象にしています。4年をかけて英語でリベラルアーツを学び、クリティカルシンキングの能力を磨くことを目的とした学部です。グローバル教養学部には、ビジネスや心理学、文学や哲学、データサイエンスなど、さまざまな専門分野の教員がいます。

近年、文系理系の隔たりなく、その両方を学ぶ学生が増えてきています。私も学生のときに、英米文学とコンピュータサイエンスの両方を勉強していました。2つの分野はまったく異なるように見えて、実は共通点がたくさんあります。その両方を学んだことで、一つだけを専攻したときには見えなかったところが見え、それぞれの知識も深めることができます。そうした環境を、学生には体験してほしいと思っています。

学びの場.com

最近は教育現場のデジタル化が進んでいますが、ケズナジャットさんのご意見を聞かせてください。

ケズナジャット

アメリカのMITなど、映像授業を無償で提供する大学も出てきています。しかし、私は映像での授業にそれほど期待していません。学ぶということは、ただ授業を見て終わりではなく、ギブアンドテイクがあってこそ。授業の中に入り込み、先生に質問したり、学生同士でやりとりしたり、そうした環境でなければ真の学びにならないと思います。

今の時代は、わかりやすいものがいいという風潮があります。本当にそうでしょうか。私自身が学生だったころ、授業が終わったときに「あの先生はいったい何を言っていたのか」と、すぐには理解できなかった授業のほうが、ずっと記憶に残っています。そして、そういう授業のほうが、最終的には深い学びにつながったように感じています。自分の世界観が試されるような経験ですね。それがとても重要なことだと思います。

ことばと真剣に向き合うということ

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ことばと真剣に向き合うとは、どのようなことだと考えていますか。

ケズナジャット

たとえば「apple」という英単語。自分が想像する「apple」は緑かもしれないけれど、相手が想像する「apple」は赤いかもしれない。そんな簡単なことばであっても、すれ違い、ディスコミュニケーションが生まれます。しかし、そればかりを考えてしまうと、今度はコミュニケーションが成り立ちません。だから、私たちは日常生活では、ことばのすれ違いを見て見ぬふりをして、なんとなくことばを使っています。

それでも、立ち止まることは大切だと思います。ことばというものが一体何なのか。何が作られていて、何が失われて、何が伝わっていているのか。それを考えることが、ことばと真剣に向き合うことではないでしょうか。

学びの場.com

言語間のディスコミュニケーションは、文字である翻訳においても同様に起きているのでしょうか。

ケズナジャット

そうですね。私は以前、ことばと真剣に向き合うあまり、翻訳作業が手につかなくなったことがあります。たとえば西洋文化の「apple」には「原罪」の意味も含まれています。あるいは、ひと昔前のアメリカでは「apple」は先生へのプレゼント(ごますり)というイメージもあります。そのすべてが、ことばの定義に加えられています。

つまり、「apple」を「りんご」と翻訳したとき、その意味の大半は失われているということです。そのプロセスを考え込んでしまうと、翻訳作業に手がつけられず、しばらく何も書けなくなりました。ことばに対して恐怖心が生まれてしまったのです。それでも、ことばと真剣に向き合うことは、特にことばを普遍的なものだと思い込んでいる今の時代には、必要なことだと思います。

「外国人の視点」から脱却

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日本語を第一言語としない書き手が、日本語で小説を書くことの魅力はどんなことでしょうか。

ケズナジャット

これは身体性にも関わることだと思います。私がいくら日本語を勉強しても、多くの日本人は、私の顔や体を見て外国人だと思うでしょう。けれど、私が書いた日本語の文章を読んだとき、すぐに外国人だとは感じられないはずです。つまり、多くの物事が活字になっている現代において、文字は平等だということです。私は、日本語の文章を読んだり、日本語で日記を書き始めたときに、その平等な感覚がとても居心地がよく、日本語で小説を書くことが好きになりました。

文学の仕事は、日常的に何気なく使っていることばを再確認することだと考えています。ということは、日本語を第一言語とする小説家も、執筆するときには自分の言語を「非自然化」しようと努めているのです。その点、日本語が自分の第一言語ではないと理解している私にとって、日本語で小説を書くことは初めから非自然だということ。その距離感をもって執筆できることはメリットでもあり、魅力だと思います。

学びの場.com

外国人が日本語で文章を書くとき、日本についての新しい視点で書くことを期待され、それが「越境文学」という一種の型となっています。そこに難しさを感じることはありますか。

ケズナジャット

デビュー作の『鴨川ランナー』では、外国人の視点から見た日本を描いているところもあります。読者の中には、それを楽しんでいる方もいるでしょう。もちろん読み方は自由ですが、そこに定着してしまうと、文学としては成り立たない気がしています。

文学は常にアンチの立場にあるはずです。正義感を装った文学では、おもしろいものは書けなくなると思います。だから、ラベリングされる文学ではなく、むしろ、そうしたラベルを剥がしていくことが大事だと感じています。「外国人の視点」が求められているのであれば、私はその視点を脱構築させるものを書いていきたいと思っています。

日本語で書く

執筆道具

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ケズナジャット流、小説執筆の作法を教えてください。

ケズナジャット

決まった作法があるわけではありません。いつも試行錯誤です。一時はうまくいった方法でも、結局は枯渇して、また別のことを取り入れてみる。その繰り返しですね。たとえば、ツールとして、パソコンで書くこともあれば、手書きで原稿用紙に書くこともあります。特に短編のものは原稿用紙で書くことが多いです。

パソコンで執筆すると、途中で編集しやすいため、一文ごとに文章を直したくなるんです。それだといっこうに進まない。それで、万年筆と原稿用紙を持ちだして、「文豪ごっこ」をして、失敗してもいいから最後まで書く。そのあとにパソコンに入力しながら推敲しています。

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その他にも、執筆の際に試している方法はありますか。

ケズナジャット

常に作業場所を変えています。毎日、同じ机に向かうとどうも集中できなくて。私の研究テーマでもある谷崎潤一郎は生涯に約40回も引っ越しをしています。ほぼ作品ごとに場所を変えていたそうですが、その気持ちはなんとなくわかります。私の場合は自宅や研究室、カフェなど、3日間ごとに場所を変えて作業しています。ときにはどこかのホテルに宿泊することもあります。常に場所を変えてないと書けないのです。不便ですよね(笑)。

学びの場.com

文章を書く上で、特に意識していることを教えてください。

ケズナジャット

私は、自分の小説を世界中の人に読んでもらおうとは考えていません。しかしながら、読者のことを考えないで自分が書きたいものばかり書いてしまうと、ひとりよがりな文章になってしまいます。それを避けるために、ある程度、読者を想定することは必要です。そのバランスを保ちつつ、コミュニケーションとは何かを考え、書きたいものを書く。私の文章はコミュニケーション力学の実験ですね。だから、英語ではなく、日本語で書くのだと思います。便利なツールとしての日本語ではなく、日本語を通じて言葉とは何かを考えながら、文章を書き続けたいですね。

たくさん読み、たくさん書く

学びの場.com

ケズナジャットさん自身、気に入っている文学作品はありますか。

ケズナジャット

子どもの頃はSFやファンタジー小説が好きで、学校の図書室にあるものを手当たり次第に読んでいました。高校生になる頃には、キーツやワーズワースなどの詩集を好んで読む時期があり、それからジョイスやベケットらの作品も読みました。

日本文学だと、谷崎潤一郎の『春琴抄』はわたしにとって大切な作品です。大切すぎて、あえて論文の題材で扱わないほどです。論文の題材にしてしまうと、作品を解剖して、冷静に見ることになります。それではもったいない。『春琴抄』は論文として扱わず、あの静謐な世界をそのままにしておきたいと思っています。

学びの場.com

中学生や高校生が、本当の意味で英語に興味を持ち、英語で何かをしたいと思ったとき、彼らに贈るメッセージはありますか。

ケズナジャット

とにかく、たくさん読んでほしいですね。英語圏の文学を広く読む。もし英語で小説を読めるレベルでないと感じたら、小説ではなく、インターネット記事などの簡単なものから手をつけてみるといいと思います。最初にシェイクスピアを読もうとしたら、挫折してしまいますから(笑)。まずは自分が楽しめるものを読む。それからもっと深みのあるものを読んでみるのはいかがでしょうか。

また、英米文学だけではなく、日本文学もたくさん読んでほしいですね。第一言語で文学を読むことは、第二言語での学習の深さにつながると思います。日本で生まれ育った人は、国語をきちんと勉強して、そこで思考力を身につけたほうが、英語の読書や学習が上手くいくような気がします。

そして、英語でものを書きたいのであれば、その世界ではどのような会話が行われていて、どのような歴史があるのかを知る。その上で自分に何が貢献できるのか、何を話したいのか、それを考えることが重要です。そのためにも、まずはたくさん読み、たくさん書く。それに尽きるのではないでしょうか。

記者の目

取材を通して、外国語学習の意義や外国語で書く小説の魅力などを語ってくれたケズナジャット氏。コミュニケーションのための便利なツールではなく、距離の遠い言語としての外国語のおもしろさに気づいたとき、それがことばと真剣に向き合う一歩になるのかもしれない。

グレゴリー・ケズナジャット

1984年、米国サウスカロライナ州生まれ。2007年、クレムソン大学を卒業後、英語指導助手として来日。17年、同志社大学大学院文学研究科国文学専攻博士後期課程修了。21年より法政大学グローバル教養学部准教授。現在は、谷崎潤一郎や越境文学を題材に文学研究を行う。作家としても、21年に『鴨川ランナー』(講談社)で第2回京都文学賞受賞。22年には『開墾地』(講談社)が第168回芥川賞の候補作になる。

取材・文・写真:学びの場.com編集部

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