2008.01.22
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科学エッセイ:アルミニウムの発見と化学 ナポレオンの愛した金より高い金属

第6回のテーマは「アルミニウム」。京都大学大学院の加納圭がご案内いたします。

アルミニウムの発見

アルミニウムは今でこそ身近な金属の一つですが、紀元前に発見されていた鉄や銅などと比べてその発見は極めて遅れていました。フランスのラボアジエによってその存在が初めて予言されたのが1782年。その後、1807年にイギリスのデービーがミョウバンから酸化アルミニウムを取り出すことに成功し、その18年後の1825年にデンマークのエルステットが世界で初めて「アルミニウムの単体」(日常生活で目にするような、ピカピカ光るいわゆる「金属アルミニウム」のこと)を単離することに成功しました。

ちなみに、「アルミニウム」という名称は古代ギリシアやローマ時代のミョウバンの古名である「アルメン」を語源に持ち、フランスのドビルによって命名されました。

どうしてそんなに発見が遅れたのか

いったいどうしてこんなにまでアルミニウムの発見が遅れてしまったのでしょうか。

単純に考えると存在量が少ないからだと考えてしまいそうですが、そんなことはありません。むしろアルミニウム元素は地殻中に含まれる金属元素の中で最も多く含まれている元素であり、地殻中の全元素の中でも酸素(存在率49.5%)、ケイ素(25.8%)に次いで3番目(7.56%)にあたるぐらいです。また、4番目(4.70%)の鉄や25番目(0.01%)の銅は紀元前から使用されていたという事実からも、先ほどの考えが誤っているのがわかるのではないでしょうか。

となるとますます発見が遅れた理由がわからなくなってしまいます。実は、そこには「金属のイオン化傾向」が関係しているのです。「金属のイオン化傾向」とは文字通り「ある金属が自由電子を放出して陽イオンになる傾向」のことを指し、その傾向が大きければ大きいほど陽イオンと して存在しやすくなります。またこのことは裏を返せば、イオン化傾向が大きければ大きいほど単体として存在しにくくなることを意味しています。

イオン化傾向を大きさの順に並べた金属元素の序列を「イオン化列」といいます。代表的な金属のイオン化列を以下に示します。高校の化学で「貸(K)そうか(Ca)な(Na)、ま(Mg)あ(Al)あ(亜鉛:Zn)て(鉄:Fe)に(ニッケル:Ni)すん(錫:Sn)な(鉛:Pb)、ひ(水素:H)ど(銅:Cu)す(水銀:Hg)ぎ(銀:Ag)る借(白金:Pt)金(金:Au)」と覚えた方もいらっしゃるのではないでしょうか(水素は非金属であるため下記からは除外してあります)。

 K, Ca, Na, Mg, Al, Zn, Fe, Ni, Sn, Pb, Cu, Hg, Pt, Au

上記から例えば「K(カリウム)は陽イオンになりやすいが、単体にはなりにくい」こと、「Au(金)は陽イオンになりにくいが、単体になりやすい」ことを読み取ることができます。これらのことを模式的に表すと以下のようになります。

このことは、金が単体として産出することや、カリウムが水酸化カリウム(KOH: K+とOH-からなる)といったイオン結晶の形で存在しやすいことからも容易に窺い知ることができます。
Al(アルミニウム)の方が多量に存在するにも関わらず、Fe(鉄)やCu(銅)よりもイオン化傾向が高いためその単体をつくり出すことが難しく、発見が遅れることになってしまったのです。

アルミニウムの製法

ではいったいどのようにしてエルステットはアルミニウムの単体をつくり出したのでしょうか。実はその原理は非常にシンプルなものでした。アルミニウムよりもイオン化傾向の大きなカリウムの単体を用いることで、アルミニウムイオンを含む鉱石中のアルミニウムイオンからアルミニウムの単体をつくり出したのです。(この当時、カリウムの単体を電解精錬法でつくり出す方法が確立されていました。理論的には同じ方法でアルミニウムの単体をつくり出すことが可能ですが、そこには1つの困難がありました。それについては後述します)。
しかしこの当時はカリウムの単体が非常に高価なものであったため、この方法によるアルミニウムの大量生産はなされませんでした。その後カリウムよりも安価なナトリウムを使用する方法が1854年、フランスのドビルにより開発され、以前よりも安価にアルミニウムを手に入れることができるようになりました。

粘土から得た銀~パリ万博にて~

ドビルが開発した方法によってつくられたアルミニウムは、1855年に開かれたパリ万博の特別陳列室に出展されました。アルミニウムは他の金、銀、宝石でちりばめられた宝飾品とともに陳列され、「粘土から得た銀」(※1) として人々の注目を集めました。この当時においては、アルミニウムは金や銀よりも貴重な金属だったのです。

※1 アルミニウムの鉱石「ボーキサイト」〈写真1〉 が、一見ただの茶色っぽい粘土の塊のように見えることから、こう呼ばれたのだと思われる。

時のナポレオン3世(※2)もこの新しい金属に魅了された一人です。彼は非常にアルミニウムを愛好していました。自分の上着のボタンをアルミニウムで作るほどであったそうです。晩餐会においては、特別な客にはアルミニウムの食器を出し、一般客には金や銀の食器を出したりしていたというエピソードも残っています。

彼はアルミニウムを使えば軽くて丈夫な武具を作ることができるとも考えており、軍事面においてもアルミニウムの生産を進めることが重要だと判断していました。そのため彼はアルミニウムの生産工場建設を強力に後押しをし、1856年にはパリ郊外に世界初のアルミニウム工場が稼働しはじめるに至りました。

※2 いわゆる“ナポレオン(1世)”の甥にあたる

2人の青年・偶然の一致 ~アルミニウムの安価な製造法開発~

カリウムよりは安価であるとはいえ、ナトリウム自体が高価であり、かつアルミニウムの3倍量が必要であったこと(「アルミニウムの製法」中の図のKをNaに代えて考えてください)、また生産量が限られていたことから、アルミニウムは金や銀よりも高値で取引されていました。そのため、アルミニウムをもっと安価に生産する方法を開発しようと各地で競争が巻き起こっていました。

この競争を勝ち抜いたのは、アメリカのホールとフランスのエルーです。彼らは偶然にも、1886年にほぼ同じ方法を独立にそれぞれ考案しました。さらに偶然なことに、彼らは同年齢であり、22歳という若さで偉業をなしとげたのです。

彼らが取った方法は次の通りです。まず氷晶石(※3)を約1000℃で融解させ、その溶液に酸化アルミニウムを溶解させることで、酸化アルミニウムの溶解液を得ます。そこに炭素棒を差し込み、これを電極として電気分解を行うことで陰極にアルミニウムを析出させました。

この方法には2つのポイントがあります。その1つは、氷晶石を用いることで、本来は約2000℃というかなりの高融点の化合物である酸化アルミニウムを約1000℃という温度で融解させることに成功したことです。これにより、鉄を溶かす程度の温度で電離したアルミニウムイオンをつくり出すことができます。遊離のアルミニウムイオンをつくり出すためにはこのような工夫が必要だったのです。(それに対して水酸化ナトリウムや水酸化カリウムの融点は300℃程度であり、ナトリウムイオンやカリウムイオンをつくり出すことは容易でした。)

もう1つのポイントは、電子の供給をカリウムやナトリウムから行うのではなく、電池から行うようにしたことです。これにより、高価な金属であるナトリウムを使用する必要がなくなりました。
装置の概略図 

装置の概略図 

陰極での反応

この方法でエルーは1888年に仏、英国特許を、ホールは1889年に米国特許を取得しました。なお、この方法は彼ら2人の名をとって「ホール・エルー法」と呼ばれています。

※3 氷晶石の化学式はNa3AlF6で表される。天然物の産地がグリーンランドに限られていたので当時の氷晶石はグリーンランドから輸入されていたようだが、現在では合成によってつくり出すことが可能である。〈写真2〉

現在のアルミニウムの製法

ホール・エルー法が開発された2年後である1880年、ドイツのバイヤーによってボーキサイトから不純物であるケイ素と鉄を取り除き、純度の高い酸化アルミニウムを得る「バイヤー法」が開発されました。これにより、原料である酸化アルミニウムを安価に手に入れることができるようになりました。

バイヤー法(ボーキサイト→酸化アルミニウム)とホール・エルー法(酸化アルミニウム→アルミニウムの単体)の組み合わせによるアルミニウムの電解精錬法が確立されて以来、アルミニウムの価格はそれ以前の200分の1程度にまで安くなりました。

このアルミニウムの電解精錬法は開発から100年以上たった現在でも使用されています。しかし、100年以上前に比べれば電気を生み出すのにかかるコストもだいぶ下がり、そこに大量生産によるコストダウンも相まってアルミニウムの価値はナポレオン3世の当時に比べて格段に下がりました(※4)。

100円均一ショップでアルミ皿が売られている光景を目の当たりにしたら、ナポレオン3世は失神してしまったかもしれませんね。

※4 金の価格は3043円であるのに対し、アルミニウムは0.304円(いずれの価格も2007年11月12日現在における1gあたりの値段)とおよそ10,000倍もの開きがある。

加納 圭(かのうけい)

所属: 京都大学大学院 生命科学研究科 生命文化学分野 博士後期課程3年
京都大学 物質-細胞統合システム拠点(iCeMS) オフィスアシスタント
駿台予備学校 化学科講師
立命館高等学校 生物科非常勤講師
学位: 修士(生命科学)

1980年生まれ、和歌山県出身。2003年、京都大学理学部卒業後、同大学院生命科学研究科(西田栄介研究室)でMAPKと線虫C. elegansの寿命の関係について研究。「RNAi法を用いた線虫MAPKカスケードを構成する遺伝子の寿命に対する影響の網羅的解析」で修士号取得。2005年に博士後期課程に進学するのを契機に同大学院内の加藤和人研究室に移り、サイエンスコミュニケーションを専門とする。その中でも特に「生命科学教育」を専門に扱い実践的研究を行っている。
またその傍ら予備校・高校で教鞭を執り、現場の感覚を養うとともに現場のニーズを研究に取り組もうと日々格闘している。夢はお茶の間が科学の話で満たされること。
主な著作としては『一家に1枚ヒトゲノムマップ』(監修:文部科学省、販売:科学技術広報財団)『一家に1枚ヒトゲノムマップ(web版)』がある。また今春にはその解説本『ヒトゲノムマップ』(京都大学学術出版会)が刊行される予定である。

文:加納圭/写真撮影:春名誠/イラスト:みうらし~まる

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